夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

ふたたび、『平成百景』の情景は・・♪

2009-01-20 08:45:44 | 旅のあれこれ
今朝、読売新聞社に寄る【YOMIURI ONLINE】を見ていたら、

  【 特集 『平成百景』
        あなたが選ぶ、新時代の日本の風景  】

と明示されたサイトを見て、私は1時間半ばかり眺め、
微笑んだのである。

過日に於いて、新聞の紙上で記載されていたのであるが、
やはりネットで公開されれば、それぞれのお方が自在にその地を選択し、
美しい日本の風土の情景を観ることが出来るので、
これ以上、贅沢なことはないと見惚(みと)れていたのである。

http://www.yomiuri.co.jp/feature/heisei100/


こうした思いは、このサイトに1月10日に於いて、
【 『平成百景』に微笑みながら・・♪ 】
と題して、投稿しているが、あえて再掲載をする。

【・・
今朝の『読売新聞』を読んでいた家内が、
私にXXに行ったかしら、と話しかけてきた・・。

私はこのサイトに、何を書こうかしら、とパソコンに向いながら、
思案していた時であった。
月刊総合雑誌の『文藝春秋』が発売日なので、これに纏(まつ)わることにするか、
或いは気候に関して綴るか、
テーマと起章と終章までの構成を思案していたのである。

『北海道の・・知床、流氷、釧路湿原・・行って観たわよねぇ・・』
と家内が再び私に云った。

私が居間のテーブルで新聞を見ている家内に近づくと、
《 あなたが選ぶ平成百景 》と題されて、
平成百景300候補地で日本の各地の名所が記載されていたのである。
そして、家内は蛍光ペンで印(しるし)を付けていた・・。


私は年金生活の5年生の64歳の身であり、
家内との共通趣味は国内旅行であり、
たまたま子供に恵まれなかったせいか、
新婚の頃から、日本の各地を四季折々訪ねたりしている。

そして、私もテーブル前の椅子に腰掛けて、
家内の云う名所の地名にうなずいたり、こぼれ話などをしたのである。
このようなことを1時間半ばかり話したのである・・。


結果としては半分前後、その地の名所地は蛍光ペンで印(しるし)を付けられたのであるが、
名所地は地名だけは知っているが、訪れたことのなかった未知の地が多かったのである。
家内は、XXに行ってないわ、と私に微笑みながら云ったのである。

旅行はもとより心身が健在でなければ、
その地の風土、文化を教示させられる緊張と喜びが薄れるので、
果たして何年先まで家内と旅に行けるのかしら、
と私は主庭のテラスに下り立ち、煙草を喫いながら思ったりした。

尚、この『平成百景』は、読売新聞創刊135周年として企画されたひとつで、
事前に候補地として300地を明示し、
《 あなたが選ぶ平成百景 》の命名どおり、読者が選定する内容と思われる。

・・】


私はこうした思いがあったりしたので、
この特集されたサイトのそれぞれの各地の情景を、
ため息もまじえ、眺めていたのである。






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嵐山光三郎・著の『編集者諸君!』を拝読して・・。

2009-01-19 16:00:29 | 真摯に『文学』を思考する時
昨年の12月下旬、家内と札幌に4泊5日で滞在旅行した時、
市内を散策していた時、大型書店のチェーンとして名高い『JUNKUDO』を観かけたので、入店したのである。

私は東京郊外の調布市に住む年金生活の5年生の身であり、
読書好きなひとりであるが、
最寄の駅前の本屋には行くが、わざわざ人の多い新宿まで足を伸ばす元気はなく、
『紀伊国屋書店』より大きな『JUNKUDO』が出店したと数年前に知ったりしたが、
時代の趨勢かしら、と思うだけであった。

今回、たまたま旅行先の札幌で『JUNKUDO』を観かけ、
どの程度の品ぞろえの本があるか、ひとつの興味もあったりしたのである。
私の拙い読書歴からして、小説と随筆の本棚を眺めれば、
各分野の専門店は例外として、ある程度の本屋の様子が解かる、と思っている。

このような思いで、著作者別の『小説』棚、『随筆』棚を眺めていた時、
ひとつの本に目が止まったのである。
嵐山光三郎・著の『編集者諸君!』であり、
発行所は『本の雑誌社』で1994年7月20日 初版第一刷発行
と明記されていた。

私は作家の嵐山光三郎氏に関しては、ここ数年に愛読する作家のひとりであり、
街中にある本屋で見かけた時は、ためらわず購入しているが、
この本は見かけたことがなかったので、やはり大型書店は、と感心したのである。

私は無念ながら忘れてしまったが、どのお方かが、
小説・随筆にしろ本の中からは必ず一行は学ぶことがある、
と30数年前に読んだりしたことがあったが、
私は嵐山光三郎氏に関しては、作品を読むたびに多々教示され、
このサイトにも数多く投稿してきている。


今回の『編集者諸君!』についは、著作者の嵐山光三郎氏の『あとがき』で明記している通り、
『本の雑誌社』に連載した随筆を一冊の本に集約した本である。

私はこの中で、特に教示させられたのは、
【 西行は007である 】と題された随筆であり、
正月の三が日にしばしば読み返し、思索させられたひとりである。

無断であるが、引用させて頂く。

【・・
西行は天皇を守護する北面の武士であった。
皇居の北面を守る武士で、いまでいえば皇居警察にあたる。
天皇の権力が絶大な時代であったから、
警視庁公安幹部といったほうが正確だろう。


西行が出家したのは、保身である。
そのまま天皇親衛隊をつとめていれば、西行は必ず殺されていた。

天皇と上皇が争った保元の乱は到底乗り切れなかったはずである。
うまくわたり歩いて保元の乱を乗り切っても、
それにつづく清盛vs義朝の平治の乱は乗り切れるものではない。

西行の元同僚は、平治の乱までに、
ほぼ半数が戦死あるいは戦犯として斬首されている。逃亡した者もいる。

勝ち残った清盛(西行と同年齢の旧友)にしたところで、いずれ負けるのだから、
西行は、知人友人同僚のほぼ全員の死を見届けるのである。
西行はそれを予見していた。


西行は逃げたのである。
『山家集』の成果によって日本の名だたる歌人となったものの、
戦乱のさなかに死んでいった武士輩の仲間からみれば、
卑怯者であり、逃亡僧であり、一番ずるくたちまわった。

そのことを書いている人は一人もいない。
みな、西行に心酔しきっているためである。


西行は軍人であった。
軍人が戦争を前にして突如ぅ詩人にくらがえしたようなものである。
軍人でなければかっこうはつくが、軍人であるがゆえにぶざまである。
そのいらだちが西行を果てしない放浪へとさそった。


西行の研究家のみならず、古典文学研究家や愛好者がおちいる罠は、
時代の現実生活を見ない点である。
いちおうの知識はあっても、文学の世界を、
現実の世からかけはなれた秘密の花園としてしまう。

それは書かれた作品によって構築された作家の内面にすぎず、
まんまと書き手の手口にはまってしまう。
「時代は戦乱のさなかであり、京の都は血で血を洗う戦いの連続であった」
ぐらいで、
「その乱れた時代に背をむけ孤独の旅をつづけた」
というくらいの認識である。


たとえば、保元の乱のとき西行はなにをしていたか。
それについては「ひそかに見物していた」という記録があるくらいで、
鎌倉時代に書かれた『西行物語』にしたところで、そこのところはとんでいる。

西行は、葬儀にはよく出た人で、
上皇、天皇、皇后の葬儀には必ずかけつけている。
仕えていた徳大寺大臣家の葬儀、歌友の葬儀にもかけつけているから、
山の中に住んでいるとはいえ、世間の動きには敏感であった。
・・

西行は出家してからも、政治の枝葉末節にかかわっていたはずである。
仕える家が大臣家であり、鳥羽法皇や崇徳院との知己を得ていたことでも、
ただの歌人でないことがわかる。
清盛ももとの同僚である。
そういった血なまぐささから逃れようとしても、逃れられるはずがない。
放浪僧に化けた宮廷歌人であり、その底に軍人の意地が流れている。
世間をケムに巻く007のようなものだ。

西行の歌はめちゃくちゃうまい。

絶品である。死に方までもドラマティックである。
時代がたてばたつほど、その虚構の純粋さが光を放つ。
だからぼくは、
「まてよ」
と思うのである。

・・


注)作者の原文より、あえて改行を多くした。



私は短歌を詠む素養はないが、やはり西行の遺された歌の数々に魅せられ、
安田章生・著の『西行』、白州正子・著の『西行』、
上田三四二・著の『この世 この生 ~西行・良寛・明恵・道元~』など10冊前後を読んだりしていた。

今回、この本を拝読していたのであるが、
西行の生きた時代の現実生活の背景を怜悧に考慮しなければ、
西行自身の実像はもとより遺された歌の数々が視(み)えてこない、
という嵐山光三郎氏の明晰な評価を学んだのである。

嵐山光三郎氏はもとより國學院大學文学部国文科で中世文学を専攻され、
平凡社で『太陽』の編集長を歴任した後、
数々の温泉紀行、料理に関しても随筆を書かれる多彩なお方でもある。

今回の『西行は007である』の中で、
【・・
机の前には百冊近くの西行関係資料があり、
まずそれをざ-っと読むのに1年かかった。
それから枝葉末節を半年ほじくって・・】

注)作者の原文より、あえて改行を多くした。

このような真摯で凄冽なほどに題材に向われ、書き上げるお方であり、
何より平凡社に勤めた編集時代に、
多くの創作に携わる作家の表と裏を身近に観続けてきた側面が加わって折、
こうした西行に関し、現世に於き稀(ま)れな提示した渾身の随筆を書き上げる才気の人である。

この作家にあえて苦言を書けば、
タイトルは安易に付けられこともあり、綴られる文章に、ときおり遊びがある。
そして、かって作者は、『西行と清盛』を書かれていたが、
壮大な大河小説でも出来る題材を流したように書き急ぎ、
と惜しまれる小説だった、と私なりに感じていたのである。


このよう感じたりしていたが、
現世の作家の随筆などで、中味が濃い名文を書き上げ、私が感銘を受ける人は、
嵐山光三郎、角川春樹の両氏しか私は知らないのである。







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『カラー大和路の魅力 ~寧楽(なら)~ 』を再読しはじめて・・♪

2009-01-19 07:49:10 | 読書、小説・随筆
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の5年生の身であるが、
家内と共に、近日に奈良の『若草山焼き』を観る為に、
奈良に1泊2日のある旅行会社の企画された団体観光ツアーで訪れる。

『東京駅』から『名古屋駅』まで新幹線の《こだま》に乗車した後、
観光パスで、『西大寺』を観た後は、奈良のホテルに宿泊する。
翌日は、『長谷寺』と『室生寺』を鑑賞した後、帰路する短かな旅行である。


昨日、朝のひととき、私は奥の書棚で奈良に関して、何かと探していたのである。
まもなく、ひとつの懐かしい本の一冊を抜き出したのある。

『カラー大和路の魅力 ~寧楽(なら)~ 』(淡交社)と題された美麗な本で、
大和の情景を写した入江泰吉氏のそれぞれの名所の一葉の写真に、
美術史学者の杉山二郎氏の綴りを寄せた大和路の風土、歴史、文化を醸し出した一冊である。
そして、発行日は昭和47年9月20日と印字されていた。

この本は、私が30代のなかば、作家・立原正秋氏に魅了されて10数年過ぎた頃、
本屋で偶然に見かけて購入した本である。


私は二十歳まもなく大学を中退し、映画・文学青年の真似事をしていた時期に、
作家・立原正秋氏の小説、随筆、そして短歌も熱愛しながら、
多少の私なりに濾過し、古都の奈良にも思いを馳せたりしていた。

私は奈良に関しては、中学時代の修学旅行の時に、
京都・奈良の名所を鑑賞したりしたが、
京都は大学を中退する前後に2回ばかり各名所を観たり、
そして新婚旅行の時に桂川に隣接したホテルに2泊したが、
何かと古都に気後れて西芳寺と桂川の遊歩道を散策した程度であった。

特に奈良については、整然とした歴史と文化を学んだ後で、
鑑賞しなければ単なるうわべの観光客に過ぎないと、
東京の郊外の田舎者の私は、伝統の前に怖気づいたのである。

そして私は、拙(つたな)いなり学べば学ぶ程、
古都・奈良と京都は、遠のいたのである・・。


このようなことであったが、今回たまたま奈良のわずかな名所を訪ねるので、
この本『カラー大和路の魅力 ~寧楽(なら)~ 』を35年ぶりに開いたのである。

私は風邪気味であったので、朝の10時半にこの本を布団の中に持ち込んで、
『西大寺』、『春日神社』、『東大寺』などを読んだりしているうちに、
眠り込んでしまったのである。

夕方の5時過ぎに目覚めたが、夢の中か、現(うつつ)か定(さだ)かでないが、
奈良の旧跡の情景がぼんやりと現れたのである。




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ふたたび、冬の花・・♪

2009-01-18 06:19:16 | 定年後の思い
昨日、私は昼過ぎに、風もなく冬晴れの中、独りで散策に行った時、
川べりの遊歩道を歩き、小公園の冬木立の情景を眺めながら、
煙草を喫いながら、ベンチに腰掛けた。

クヌギ、コナラなどの雑木であるが、
冬のやわらかな陽射しを裸樹は受けて、私は好きな光景のひとつである。

この後、しばらくして、
今年はまだ神代植物園に訪れていないなぁ、と思ったりしたのである。


私はこの神代植物園の思いは、この時節に家内と訪れた一昨年に、
あるサイトに投稿した綴りがあるので、あえて再掲載をする。

題して、【 されど、冬の花・・♪ 】と、2007年1月19日に投稿した文のひとつである。


【・・
東京郊外の調布市に住む私としては、この時節になると花が少なくなり、
少し寂しい気になる時もある。

こうした折、付近の小公園、遊歩道を散策したりしている。

ときには飽き足らず都立の公園に行ったりしている。

私の住む最寄の都立の公園は、『神代植物公園』があり、隣接した所に深大寺もあるが、
徒歩で45分前後の道のりである。

私は川沿いの遊歩道を歩くのが多いが、
時として違ったコースを歩き、途中からバスを利用することもある。

いずれにしても、この公園は私が通った中学校の付近にあり、
私が中学校を卒業の頃に開園したので、色々な意味を含めて、四季折々通ったりしてきた時もある。

私が心に迷った時も樹木を眺め、それぞれの花に心を寄せて、
心の濾過をして浄化されたりしてきた。

http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/seibuk/jindai/annai/index.html

私がこれまで生きてきた人生には、
時として心の証(あかし)として、
梅(ウメ)、椿(ツバキ)、櫻(サクラ)、花水木(ハナミズキ)、躑躅(ツツジ)、紫陽花(アジサイ)、
花菖蒲(ハナショウブ)、蓮(ハス)、槿(ムクゲ)などに心を寄せてきたので、
それぞれのコーナー園が私の人生のなかば、迷よったりした時も知っていると思われる。


昨夜、家内と夕食の時、久々に神代植物公園に行ってみよう、と私は提案した。

私は散策の折、ときたま植物公園まで四季折々、訪ねていた。

私が40歳代の時は、家内を誘い度々訪れていた。

50歳代になると私は会社の業務が益々多忙となり、
家内の方はテニスに熱中していたので、
国内旅行だけは何とか休暇のスケジュール合わせる程度となり、
私が日曜日に休めた時は、ひとりで通ったりしていた。


10時過ぎに家内と植物公園に向かって川沿いの遊歩道を歩いた。
平日の午前中で北風が吹き寒さの中、人影も少なかった。

川の水辺の近くに鷺(サギ)、鴨(カモ)が数多く観られ、そして鶺鴒(セキレイ)、椋鳥(ムクドリ)も飛来して、
私は興味がなかったが、家内は動物、小鳥達が好きだったので歓声をあげていた。

深大寺に着いて参拝後、付近のお蕎麦屋さんに入り、昼食とした。
ビールで喉を潤(うるお)した後、十割蕎麦を頂き、蕎麦湯を飲んだりした。

植物公園内を散策し始め、梅園に寄り、蝋梅(ロウバイ)の咲き始めている花に近寄ったりした。
色は黄色で花の中心は紫褐色となって折、冬の陽射しの中で安らぎのある情景を彩っていた。

この近くに黄色の花色となって、中心が淡い黄色となっているのに私は魅了させられた。
品性があり、芳香が少し強い難点を除けば、私の好きな冬の花となる。
主木の外れに『ソシン・ロウバイ』の樹木名の札があった。

この後、藪椿(ヤブツバキ)を誉(ほ)めた後は、
福寿草を探したが、数輪が土の中から黄色い花が見られた程度であった。
家内は身体が冷えたというので、止む得なく温室に急いだ。

私は温室は何かしら好きになれない。
樹木、草花は、四季折々の中で、それぞれの移ろいがあるので、心を寄せ、私は魅了させられている。

人工栽培より露地野菜を好む習性と同様と思っている。

その後、私達は欅(ケヤキ)、クヌギ、コナラ、ハクウンボク、ヒメシャラ、
イヌシデ、ヤマボウシ、コブシなどの冬木立の中歩いた。

私はこうした葉を落とした冬木立の光景が歳を重ねるたびに、
最も魅了させられている。

陽が高いうちに引き上げようとして、私達は3時過ぎに植物園を後にした。

・・】


このように綴っていたのであるが、こうして読み返したりしていると、
私の幼年期は農家の子として生を受けたので、
実家の雑木林などにクヌギ、コナラなどは何10本もあり、
欅(ケヤキ)の30数本は畑と宅地の間に防風林の役割もいたのであり、
私にとっては、まぎれなく原風景として、いつまでも心に残っていると思われるのである。






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齢を重ねた64歳の私は、生まれて初めてヨーグルトを賞味して・・♪

2009-01-17 08:55:26 | 食べ物、お酒
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の5年生であるが、
昨夜、生まれて初めてヨーグルトを賞味したのである。

私達夫婦は、少し風邪気味であったので、
私は昼前に買物を済ませた後、
2時過ぎに海苔、佃煮、そしてシャケを頂きながら、
味噌汁と共にご飯を多めに食べたのである。

私は古風なタイプのひとりであるので、元気のない時は、
お腹いっぱい食べるのが、何よりの対策であると、
固く信じている拙(つたな)い男である。

夕方、お互いに早めに風呂に入った後、
『貴方も・・風邪薬・・飲んだら・・』
と私は家内から云われたりしたのである。

家内は一年に一度ぐらい風邪で早めに寝て休むことがあるが、
私の場合は、季節の変わりめに風邪をひく場合が多く、
ひどい時は5日前後、体調を崩す気弱い男である。

『夕飯はよいから・・早く休んだら・・』
と私は家内に云った。


この後。私は7時過ぎにひとりでコーヒー、煎茶を飲みながら、
菓子パンを2つ頂いたのである。
そして、8時過ぎに、何となく物足らなくなり、
冷蔵庫に保管してある家内の愛食しているヨーグルトを見つめて、
食べてみようかしら、と思いたったのである。


私は中学生の頃に、好奇心でヨーグルトを食べはじめた時、
牛乳の腐った感じで酸味もあるので、
ひと口、口に入れた後、私には合わない食べ物のひとつと確信し、
これ以来、敬遠していたのである。


私はおそるおそる食べはじめたのであるが、
何故かしら美味しいと感じて、もうひとつを食べて、
『ヨーグルトって・・美味しいだぁ・・』
と私は心の中で呟(つぶや)いて、ワンパック頂いてしまったのである。


http://www.meinyu.jp/product/yogurt_dessert/tokachiyogurt/

私は食べ終わった後、『北海道 十勝』と明記されていたので、
私は幾たびか北海道に旅行で訪ねたこともあり、
何かと北海道の食べ物が心身波長が合うので、
このヨーグルトも、お友達のひとりになった、と微笑んだのである。


今朝、顔を洗っていた時、
呑兵衛の私としては、たまたま休肝日となり、
生まれて初めてヨーグルトを頂いたのであるから、
少しお肌が良くなったかしら、と鏡を見つめ直したりしたのである。





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『蒼穹(そうきゅう)』という言霊に深く魅了され・・♪

2009-01-16 16:48:49 | 真摯に『文学』を思考する時
私が蒼穹(そうきゅう)という言葉を遅ればせながら知ったのは、
昭和55年(1980年)10月の初旬で、私が30代のなかばであった。

敬愛していた作家・立原正秋氏が亡くなり、
遺稿エッセイ集として立原正秋・著の『冬の花』(新潮社)から発刊されて、
私は発刊日を待ち焦がれて、買い求めた一冊である。

この中の随筆のひとつとして、
『旅から帰って』と題された随筆があり、私は初めて『蒼穹』という言葉を知り、学んだのである。

【・・
1日、思いたって浦上蒼穹堂を訪ねた。
有名な店ではない。蒼穹堂は私がつけた店である。
浦上満くんは繭山龍泉堂に五年間勤め、
日本橋の仲通りに独立して小さな美術店を開いた。
・・
たのまれて蒼穹堂の扁額を認めたが、
日が経つにつれて字が不安になってきたので、
それをたしかめるためでもあった。

・・』
立原正秋・著の随筆集『冬の花』から、『旅から帰って』よりP45の一部を引用

注)著作者の原文より、あえて改行を多くした。


私は読みながら、蒼穹という言葉は、
作者が朝鮮半島で生を受けたのであるから、
大陸性の風土で、澄み切った蒼い空が空一面に果てしなく拡がった冬晴れるの光景を
思い浮かべたのである。

このような想像をしながら、私は亡くなわれて数が月の作家に愛惜を深めたりした・・。


この後は、平成8年(1996年)の4月に、本屋で『蒼穹の昴』と題された背文字に魅了されて、
本棚から取り出したのは作家・浅田次郎の小説の上・下巻(講談社)であり、
まもなく私はこの小説に夢中になった後、この作家の過去の作品を探し求め、
読んだりしたのである。


そして、平成11年の晩秋の頃、大型書店で偶然に、
金子 昌夫・著の『 蒼穹と共生~立原正秋・山川方夫・開高健の文学 ~』
という評論集を見かけたが、
殆どの作者の作品を読んだりしていたので、購入しなかったのである。
ただ、《透きとおった蒼空の動かしがたい美しさ》と本の帯に書かれていたのが、
心に残ったのである。


そして、昨夜、あるサイトの投稿文の詩を読んでいたら、
私は詩の世界は余り読んだことがないが、
私の知る限り、桁外れに才能を秘めた詩を読んだのである。

  『バラード』と題された詩で



市営グランドの柵を乗り越えたら
そこは満天の星々
ぼくだけの舞台に
またひとつ流れ星が堕ちてゆく
なにひとつ
歌の聞こえてこない市営グランド

寝そべって見上げれば
空も 
地球も
人間も
すべての生き物も
蒼穹の夢の欠片のような輝き

・・


私は、《寝そべって見上げれば・・》からはじまる一節、
何より《蒼穹の夢の欠片のような輝き》一節・・
この一節だけでも、私が感じ、感銘を受けた度合いは、詩人・宮沢賢治氏を遙かに凌駕している。


たまたま今朝のひととき、隠れた才能のある方の詩を再読し、
動顚するほどに感銘を受けたので、
改めて《蒼穹》に関して、このような形で私なりに綴ることができたのである。

尚、この作者の表現された詩は、このサイトにある。

http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/pikkipikki






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我家の戦旗に、体力の衰えた私は励(はげ)まされ・・♪

2009-01-16 08:32:03 | 定年後の思い
私は年金生活の5年生であるが、殆ど日の出前に起床している。
今朝も起床してから、居間の片隅にある『日めくり』の格言を心の中で呟いたりした。

  できない
  約束は
  しないこと
  だな

たまたま本日の16日はこのような格言が明示されて折、
独自の書体で書かれ、私はもう1度読んだりしている。

この『日めくり』の格言は、書家・詩人の相田みつを氏の遺(のこ)された作品のひとつで、
私の心は、どの宗教より遙かに深く敬愛しているので、
だらけた私の戒(いかし)めとして、読んでいるのである。

この『日めくり』の格言は、居間のビデオ・ケースに上に置き、
奉(たてま)っているのである。
そして、この横にひとつの可愛らしい旗が立っている。

『毘』と明示された戦国時代の戦旗のひとつである。

そして、私は齢ばかり重ねた64歳の体力の衰えた身であるが、
現世の時代に遅れていないなぁ、
と微笑んでしまうのである。

何かしらNHKの大河ドラマで『天地人』という時代劇が、
今年は日曜日の夜に放映されているが、
番組の概要として、

【・・
上杉謙信を師と仰ぎ、
兜に「愛」の文字を掲げた兼続は、
その波乱の生涯を通じて、民・義・故郷への愛を貫きました。

「利」を求める戦国時代において、
「愛」を信じた兼続の生き様は、
弱者を切り捨て、利益追求に邁進する現代人に鮮烈な印象を与えます。

大河ドラマは、失われつつある「日本人の義と愛」を描き出します!

・・】

http://www9.nhk.or.jp/taiga/


このように明記されていたので、
我家の戦旗は、まぎれなく上杉謙信公が愛用していたので、
私は微苦笑したのである。


この我家の可愛らしい戦旗については、
このサイトで昨年の8月14日で、
【 『毘』の戦旗の小旗が揺れ・・♪ 】と題して、投稿しているが、
再掲載する。

【・・
過日、佐渡の旅行に行く際、直江津港のフェリーに乗船する前、
上越市の外れにある『上杉戦国物語展』の会場に入場した。

私は戦国時代の名将のひとり上杉謙信には、
余り知らないが、展示品を早めに観た後、
会場の外側にある喫煙場で煙草を喫ったりしていた。

会場の門前の周辺にし、上杉謙信の戦旗を模した軍旗が数多く、
風を受けてはためいていた・・。

家内たちは、展示会場にいるらしく、
私は売店の近くの椅子に座って、待機していた。

売店の背面に、戦旗が、
紺色に染められた生地に白く『毘』と明字され、
或いは白生地で朱色で鮮やかに『毘』と書かれた旗もあった。

いずれも白いプラスチックの旗軸は180センチの高さであり、
旗本体は120センチの長さ、横幅は30センチ前後である。


私は家内たちを待っている暇があったので、
売店の50代の男性に、
『立派な戦旗ですね・・』
と私は声をかけた。

『お誉め頂き・・有難う御座います・・よろしかったら、1500円で・・』
と男性は、私に微笑みながら云った。

『私は・・新潟の上越出身であったら・・
2本買い求め・・自宅の門扉に差して置きますが・・
残念ながら、東京の田舎者でして・・』
と私も微笑みながら、男性に云った。

『私の場合は・・部屋の暖簾(のれん)にしていますよ・・』
と男性は私に云った。

『地元のお方でしたら・・それも素敵ですね・・』
と私は男性に云った。

この後、売店のショー・ケースの上に、
旗軸は30センチの高さの可愛らしい小旗が3本ばかりあったのに、
気付いたのである。

『この小旗だったら・・部屋でも飾れそう・・』
と私は云いながら、たった1本を買い求めたのである。



帰宅後、パソコンの置いてある机の隅に、
この小旗を立てかけたのである。

紺色に染められた生地に白く『毘』と明字され、
エアコンの微風を受けて、小さいながら一人前に揺れながら、
はためいているのである。

たった650円の品であるが、
時折こうした戯(たわむ)れを私はするのが、
悪い癖のひとつである。


尚、『毘』の由来は、
戦国武将の上杉謙信公が信愛していた、毘沙門天から命字されたいる。

http://uesugi.yonezawa.info/?p=log&l=68359

・・】


このように投稿しているが、この可愛らしい戦旗は、
パソコンの横から移動させてビデオケースの上に置き、
私は体力の衰えた身であるが、少なくとも気力と意欲だけは青年のように、
と思いながら、日々励まされているのである。




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されど、『イチゴの日』・・♪

2009-01-15 17:23:09 | 時事【社会】
我家の台所にある風物詩のあるカレンダーを見ていると、
『イチゴの日』とイチゴの絵も描かれて、可愛らしく表示されていた。

私はイチゴの生産か販売に携(たずさ)わる方たちが、
イチゴの消費拡大を目的として、この日はたまたま15日であり、
【一五(いちご)】の語呂(ごろ)あわせ、健気(けなげ)に制定した、
と何かの本で読んだことがあった。

私は、イチゴかょ、と思い浮かべ、
少なからず私なりに思いでがあったので、恥ずかしながら綴ってみる。


私は定年退職後、日常の買い物を担当しているので、
スーパーの生鮮野菜コーナー、果物コーナーなどを見たりしている。

この時節、イチゴの赤く成熟した大粒が並んでいる。
家内は好きな果物のひとつであるので、買い求めたりしている。

昭和26年の頃は小学1年生であった私は、
祖父、父が健在で程々手広く農業をしていた。

叔母達も陽当たりの良い畑の一角で、草花を植えたり、イチゴなどの果物を植え込んでいた。
草花は仏様、お墓の墓前に供えたり、或いは室内の花瓶に生けたりしていた。

イチゴは5月頃になると、白い花をつけた後、結実し、初夏の頃に赤み帯びて成熟する。

私は幼年期であったので、
『まだ駄目・・!?』
と私は叔母に懇願するように云ったりした。

『まだ白さがあるでしょう・・もう少しね・・』
と叔母は云いながら、2坪ほどの広さのイチゴ畑の中で、
少し赤く色づい実を捜して、ひとつぶを私の口に入れてくれた。

口に入れて噛み砕いているうちに甘み拡がってきた・・。


昭和50年、家内と交際をはじめ後、1月の下旬だったと思うが、
東京駅で待ち合わせ、新幹線の『こだま』で清水駅まで利用し、
日本平付近の丘陵のイチゴ園に行った。
日当たりの良い丘陵でビニールハウスの中で養育されていた。
入り口でカップに入れたミルクを頂き、ハウス内のイチゴをもいで食べる方法であったが、
途中で家内に私のミルクを手渡して、私は外に出た。

ハウスの入り口から少し離れた所で、
私は煙草を喫いながら海辺の光景を観ていたが、
ときたま微風を受けると寒さが感じられた。

私は3粒を頂いたが、初夏の果物がどうして・・と思ったりした。


昭和35年の高校生になると、季節を問わずショート・ケーキの上にイチゴが載せられたり、
日本の各地でビニールハウスの情景が見られたりした。
私が中途入社した昭和45年を過ぎると、会社の2月頃の旅行の折、イチゴ園に寄ったりした。

私は露地栽培の初夏、実がまばらな小粒で、淡い甘さが幼年期の想いでのためか、
昨今のイチゴには戸惑いを覚えている。


尚、私はお酒大好きな呑兵衛の男であるので、
イチゴは婦女子の果物のひとつであると確信し、20数年過ぎている。
家内がこの時節も愛食しているが、
私は1年に2粒ぐらいお付き合いしている程度である。




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まもなく『大寒(だいかん)』の時節を迎え・・♪

2009-01-15 08:55:06 | 小庭の情景を眺めながら
東京郊外の調布市に住む私は、
早朝にカレンダーを眺めていたら、1月20日は【大寒】と明示されて、
私は苦笑したのである。

古人より『大寒』の頃になれば、一年で最も寒い時期、と伝えられているが、
東京の郊外は、昨年の23日に雨が降ってから、今年も一度に降った程度で、
冬晴れの日が多く、乾ききった日々となっている。

私は年金生活の5年生の身であり、日頃は買物、散策をしたりしているが、
昨年の初冬以来、札幌に訪れた旅行以外、
マフラーをしていないことに気付いたのである。


今朝方、地元の天気情報を見ていたら、
朝の6時過ぎは2度、日中は6度前後の冬晴れとなるが、
ときおり北風が強く吹くので今年一番の寒さとなります、
と報じていた。


私は散策などの場合は、冬のスポーツ・シャツに綿入れの外出用の袢纏(はんてん)、
冬用のズボン、そして足袋と下駄の容姿で出かけたりしている。
買物などで購入品が多い場合は、厚手のセーターと冬用のズボン、
そしてウォーキング・シューズとなったりしているが、
いずれもマフラーはしなかったのである。

私は付近の遊歩道を歩いたりしていると、乾ききった状景を眺めたりしていると、
早く雪が降らないかしら、と待ち焦(こ)がれているひとりである。
公共交通機関の支障がない5センチ前後がベストよ、
と心の中で祈願したりしているのである。


先ほどから、主庭、居間に朝のまばゆい陽射しを受けて折、
私はいつものように足袋を穿(は)き、下駄で主庭のテラスに下り立った。
煙草を喫いながら、霜柱を見つめたりしていたが、
陽射しを受けているので、まもなく消えうせてしまうので、
私ははかなさの美を感じたりしている。



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読売新聞に寄る北海道・発信サイトの『地球(ほし)の叫び』・・。

2009-01-14 18:36:15 | 時事【社会】
私は民間会社を定年退職後の年金生活の5年生の身であり、
夕方のひととき、読売新聞社に寄る【YOMIURI ONLINE】のサイトで、
《地域情報》のコーナーで、偶然に『北海道』を開き、

 【第2部 知床からの提言】として、知床の環境の軌跡を読み耽(ふけ)っていた・・。

1時間ばかり読んでいると、
【 『地球(ほし)の叫び』 】の命題に基づいて、
北海道の地域情報の発信記事でとして企画・連載していた記事のひとつで、
全体としては、

【・・
 【第1部 そこにある温暖化】

 地域で起きている「温暖化現象」にスポットを当て、未来への道を探った。

 【第2部 知床からの提言】

 知床を守る多くの人々の「英知」から人と自然が共生する持続可能な社会を模索する。

 【第3部 3Rを考える】

 7月の北海道洞爺湖サミットのテーマのひとつでもある「3R」を、身近なところから考えてみた。

 【第4部 森との共生】

 森と生き物をよみがえらせようと、道内各地で行われている試みを検証し、人と自然の共生の道を探りたい。

 【第5部 未来への道】

 道内で展開されている自然や人に優しい、官民の取り組みを中心に検証し、未来への道筋を探ります。

・・】

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/hokkaido/feature/hokkaido1200365011824_02/index.htm



私は恥ずかしながら、真摯な命題に基づいたサイトを初めて知り、
環境問題などと狭い領域でなく、この星に生を受けたひとりとして、
読み始めたのである。

こうした真摯に良識なサイトは、未知の方たちに多くを知って欲しい、と思い、
余計なお節介ながら、あえて紹介したのである。






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私達夫婦の団体観光ツアーの初まりは、冬の旅・・♪

2009-01-14 09:38:36 | 旅のあれこれ
私は年金生活の5年生の身であり、
私達の夫婦の共通趣味は国内旅行なので、
子供に恵まれなかった為か、若い頃から日本の各地を四季折々に訪れたりしている。

定年後は、現役時代の多忙な身から解放されて、
ある程度は自在な日程が設定できるので、旅行の宿泊数も増えたりしている。


『気にいったプランがあれば・・行こうょ・・』
と私はバソコンでネットのニュースを見ながら、家内に云ったりした。

私は経費が程々であり、私たち夫婦が心身意欲のあるうちに
旅行をしょうよ、
と家内に云ったりしているのである。

今回、たまたま1月24日から1泊2日の小旅行となり、
奈良の『若草山焼き』を観る為に、団体観光ツアーで参列したのである。

このことは、11月中旬の頃にこのサイトに於いて、
【・・
家内が旅行勧誘雑誌を持ち、
『この「若草山の山焼き」・・どうかしら・・』
と家内は私に手渡しながら私に云った。

本の解説に寄れば、
【・・山に火を入れ、山全体を燃やす、古都・奈良の新年を飾る行事です。
毎年多くの観光客が訪れ・・2009年1月24日に行われます・・】
と記載されていた。

奈良のホテルに一泊し、到着の夜に鑑賞し、
翌日は寒ボタンの咲く長谷寺、そして私のあこがれの未知の室生寺を観る
短じかな1泊2日であるが、
私はわずかな雪が舞う室生寺に夢想をし、
『行きましょう・・』
と私は明るく家内に云ったのである。


そして、この後まもなく、
『こうした行事は指定日であり、限定されるので、早く予約した方が良い・・』
と私は、家内に旅行会社に予約するように云ったりしたのである。

・・】


このように綴っていたのであるが、
私達夫婦は、ときおり旅行会社の企画に魅了された時は、
団体観光ツアーに参加している。

このような思いのひとつとして、私はこのサイトに於いて、
【団体観光ツアーの効用は・・♪】と題して、
2007年9月6日に投稿しているが、あえて再掲載をする。

【・・
私は定年退職後の3年生で身であり、
家内との共通の趣味は、国内旅行であり、四季折々、日本の各地を訪れている。

若き40歳の少し前までは、JTBなどの旅行会社に予約して、個人旅行をしていた。
団体観光の場合は、旅行日程に制約があり、
同行の方達と一緒なので何かと息苦しく感じ、
宿泊先の観光ホテルなどでも気詰まりのように思っていたのである。


私が40歳の少し前、新年まもない土曜日の午後、
2月の初旬、山寺と蔵王の樹氷めぐり、そして最上川の船下りした後は越後地方を周遊し、
この間、上ノ山温泉と温海温泉に宿泊する、
という団体観光ツアーの新聞に掲載された広告を見た。

個人旅行としては、真冬の山寺を歩いて参拝したり、蔵王の樹氷の景観を眺め、
その上に最上川の雪の光景の船下り・・
と私達は思案してきたが、交通の不便な処を行き来するので、長年にためらってきたのである。

家内に思い切って参加してみよう、と相談し、参加することにした。

東北の雪の中の旅程なので、防寒着で身を固めて、
指定された集合場所に定時前に着き、バスに乗り込み、
あらかじめ指定された座席に腰を下ろした。

持参した純米酒を呑みながら、車窓から東北の冬枯れの情景を眺めた上、
バス・ガイドさんの解説を聴いたりして、時折まどろんだりしていた・・。

観光地の最寄で降り立って、周遊した後は、再び走行するので、
途切れた時間待ちがないので、
特に冬の寒い時節は、移動は楽であることを実感させられた。

宿泊先の観光ホテルは期待していなかったが、想像以上に質感が感じられ、好感したりした。


私達夫婦は個人旅行の魅力も知っているつもりであるが、
団体観光ツアーの価格の廉(やす)さには驚いたり、赤字にならないのか、
と余計な心配もしたのは事実である。

私達は自動車を保有しない信条なので、
この旅行で好感したので、ときおり団体観光ツアーを利用している。

何より魅了されたのは、バスの車内、休憩時間のサービス・エリア、お土産屋さんのひととき、
そして食事処などで共に参加された年配のご夫婦の会話、しぐさを私達は学んだことである。

このご夫婦の方達とさりげない会話をしたりして、
私達は人生の大学の生徒となったりした。

さりげない人生を教示して頂いたり、
私達夫婦も60歳代になった時は、あの方達のような夫婦になれたら、
とツアーの参加のたびに、数多く学んだりしてきた。

こうして最初に団体観光ツアーに参加してから、
早くも20数年を過ぎようとしている。

今の私達もときおり利用しているが、
自分達より10歳前後の年配の70歳代のご夫婦に関心を持っており、
旅先のひととき、数多く学んでいる。

・・】


このように綴っていたのであり、
このように初めて団体観光ツアーに参加した南東北地方の冬の旅を思い返したりしたのである・・。

そして、この後は【冬の旅、初めて魅了され・・♪】と題し、
このサイトに2006月1月28日に投稿文を読み返したりしたのであり、
あえて再掲載をする。

【・・
   第一章

私共の夫婦は、子供は恵まれなかったが、旅行が好きである。

今から、20数年前頃、意識して初めて冬の旅の話題となった。

それまでは、会社の休日を利用して、
奥志賀高原のホテルに滞在したり、
長野県の安曇野に近い青木湖にあるホテルに滞在する時もあり、
或いは箱根の旅館に滞在したりしていた。

新聞に冬の蔵王の樹氷、山寺の鑑賞、
最上川の舟下りの旅行企画の広告があった。
但し、団体観光バスツアーであった。

それまでは、私共の夫婦は、団体観光ツアーは行ったことがなく、
ためらいがあった。
この頃の私共は、住宅ローンの返済が家計に重く圧(の)し掛かっていた。
芭蕉、西行への想いが強かった時分で、
格安で想いを馳せるので、参加した。

この頃、遊び着の防寒服がなく、靴も無かったので、
アウトドアの店で予算が乏しく中級程度の品しか、買えなかった。

このようにして、団体観光バスツアーに参加した。
確か2月の上旬で、2泊3日で旅行の為、初めて金曜日に有給休暇を頂いた。

東北自動車道を北上し、白河関を過ぎた頃、雪の状景がなく、
がっかりしたりしていた・・。



   第二章        

バスは東北自動車道の高速道路を降り、
米沢への一般道を走った。
峠道を抜けると、あたり一面、雪景色となった。
右手の斜面は、スキー場で数10人の人達が滑っていた。
やっと雪が観られたという思いから、
南東北をお訪ずれている実感が湧いてきた。

その後、今晩宿泊する上山温泉に着き、
手荷物を置いた後、家内と散策に出かけた。
積雪は60センチ前後で、除雪がされている市道を歩いた。
『上山城』を近くから観たが、心に残らずとぼとぼと歩いた後、
古びた館にたどり着いた。

分厚い草葺きの屋根に、雪が30センチ程度あり、
入り口の周辺は、うず高く積雪があった。
『春雨庵』と小さな諸札があった。

私はここが、江戸時代の時、沢庵禅師がこの地に流罪になった処だった、
かと知った。
この沢庵禅師を想い馳せれば、この雪深い地に住まわれて、
どういう思いで過ごされたか、と寒気の漂う茶室、居間を観たりした。

『この季節は大変だと思うが・・
春から夏、秋は過ごしやすいかなぁ・・』
と私は家内に話しかけた。

ホテルに戻った後、指定された部屋に入ると、
『まぁまぁの部屋じゃない・・』
と家内は言った。

大浴場に浸かっていると小庭園が観え、雪景色となったいた。

私は、拙い俳句を呟(つぶや)いたりした・・。

部屋に戻ると、売店で購入した地酒を呑み始めた。

家内が風呂から上がって来て、
『貴方・・お湯も良かったけれど・・
打たせ湯・・良かったわょ・・』
と家内は言った。

私共は、この団体観光ツアーは、同行する人達との気心も心配することなく、
宿泊の部屋も良く、
『これでしたら、このツアー・・許せるわょ・・』
と家内の声を聴き、私は安堵した。

この和風の寛(くつろ)げた宿は、
『ホテル城戸口屋』と館内の案内書に書かれていた。



   第三章

朝、目覚めると雪が舞い降りていた・・。

朝食前、ロビーに行ったら、添乗員さんから、
蔵王の樹氷めぐり、山頂付近は吹雪いていて、
中止にさせて頂きます、と言われた。

その代わり山寺では、ゆっくりとした時間を取りますから・・
と言われる。

山寺は雪の舞い降りる中、
山全体がぽっかりとした雪の中の景観であった。
山門を入ると、長靴が数多く並べられていた。

2時間半後、先程のバスまでお戻り下さい、
と添乗員さんは大声で伝えていた・・。

ふもとの根本中堂から歩き始めると、
上り坂になり、積雪は30センチ前後あり、
家内に大丈夫・・と声をかけながら登った。
途中の簡素な堂塔は、雪の中にちょこんと観えたが、
雪を掻き分けて登るほうに気を捉えたりした・・。

雪の無い季節は、石段であるが、
こうして積雪に埋もれた雪の中を山頂の奥の院を目指して登った。

私共は、先頭を登っていたが、後方に人影もなかった。
私共の観光ツアーの同行者の方達は、大丈夫かなぁ、と思ったりした。

まもなく、雪の降りしきる中、如法堂が観えた。

息を整えて、下方を見ると、雪が舞い降りる中、
平地の一面が見えて、ゆっくりと列車の走る小さな形が観えた。

私共は下った折、稲の素朴な縄が急な坂の処にあり、
中年女性の3人組が登ってきた・・。
この縄を掴(つかま)ったりしながら、
歓声を上げながら、私共とすれ違う時、

『奥の院・・まだ、だいぶ先ですか・・』
と訊(き)かれた。

『もう少しですが、気を付けて・・下さい』
と私は言った。

この後の行程では、この3人組とお互いに語り合うようになった。

根本中堂に戻ると、50代の上品な軽登山の出(い)で立ちのご夫婦を見かけた。
私共のツアーとは関係の無い人達で、個人旅行で寄られた様子だった。

昼食をこの付近り旅館で頂いた。
芋煮のような丼に、山芋、里芋、牛蒡、人参、蓮、牛肉が入っていた。
私は、里の作物は、幼年時代に食べ飽きていたが、
家内は、温まるわ、と言いながら美味しそうに食べていた・・。

私は冷酒を呑みながら、
先程に見かけたご夫婦のことを想い浮かべた。

あと10年後、私共はあのような夫婦になれるかしら、と思ったりした。



   第四章

私達の団体観光ツアーのメンバーは、
雪の中の山寺での登り降りのお陰で、
すっかり寛(くつろい)いだ雰囲気となった。

昼食の後、最上川の舟下りの始発の処まで1時間ほどあり、
思いがけない山寺の歩きの疲れと
あたり一面快晴となり車内は温室のようになった上、
昼食後の満腹加減で、大半の人は眠りについていた。

舟下りは、快晴の中、岸辺の積雪と周辺の景観のうつろいを観ながら、
冷酒を呑んだりした・・。

下船した後、バスに乗り、しばらくすると、
あたり一面急激に吹雪いて、周囲の景色は吹雪で見えなくなった。

以前、庄内地方の方に聴いていたので、
このように快晴の合間でも、突然に吹雪いて、しばらくすると回復すると・・。

バスは10数分ぐらい立ち往生していたが、
徐行しながらゆっくりと走り出した。

鶴岡の名所を観た後、宿泊先の温海温泉に着いた。

翌日、雪が舞い降りる中、新潟近郊の名所を観て、一路東京に向った。

バスの中で、途中で購入した地酒を70歳前後の男性と酌み交わした・・。
この男性は、奥様連れで、私は最上川の舟下りの頃から、好感していた。

旅の終わりでこのご夫婦と別れる時、
『何時か、再び、お逢いしたいですね・・』
と私は言った。

・・】


このように幼く綴っていたのであるが、
この時の各地の情景がときおり甦(よみがえ)ったりし、
私にとっては深い思いでの旅の贈り物のひとつとして、心の宝物でもある。







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改めて、『どんと焼き』の想いで・・♪

2009-01-13 16:03:56 | 幼年・少年時代の想いで
ここ数日、NHKのニュースを視聴していると、
地方に於いて、『どんと焼き』の情景が放映されて折、
私は懐かしげに見惚(みと)れていたのである・・。

私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
遠い昔、私の近くの実家は、祖父と父が健在だった頃、
農業を営(いとな)んで、程々の広さの田畑を耕し、雑木林もある農家であった・・。

そして、今頃の時節に、確かに『どんと焼き』をしていたと思い、
飯倉春武・編の『日本人のしきたり』(青春新書)を本棚から取り出して、
読んだりしたのである。

この中で、【左義長(さぎちょう)】という項目で、
正月飾りを燃やす理由、と付記されて、
明晰に解説されていた。

無断であるが、転載させて頂きます。

【・・
小正月の1月15日の前後に行われる火祭りが『左義長』です。
『左義長』は『どんと焼き』、『どんと祭り』とも呼ばれ、
この日には、正月に飾った門松やしめ飾りを、
神社や寺院の境内などに持ち寄って燃やしました。

いわば正月飾りの後始末の行事ですが、
燃やす時の煙に乗って、新年に訪れた年神様が、
天上に帰っていくと信じられたのです。

そのとき同時に、棒の先に餅・芋・だんごなどを刺し、焼いて食べたりします。
地域によって違いはあるものの、
門松やしめ飾りなどを燃やした火で焼いて食べると、
その年は無病息災であると信じられました。

なぜ『左義長』と呼ばれるかについては、
平安時代の宮中の儀式で、三毬杖(さぎちょう)と呼ばれる青竹を立てて、
正月の飾り物を燃やしたことに由来するという説や、
鳥追い行事の鷺鳥(さぎちょう)から来ているなどの説があります。
・・】

注)解説の原文をあえて改行を多くした。

私はこの解説を読みながら、【どんど焼き】に於いて、
遠い昔、どうして青竹を用いていたか、初めて理解したのである。


私は【どんど焼き】については、このサイトに於いて、
一昨年の1月20日で【その昔、小正月、そして20日正月・・♪】と題して、
投稿していたが、あえて再掲載をする。


【・・
私は東京の郊外に住んでいるが、私の幼年期の頃を想いだしていた・・。

昭和26年の頃は小学1年生であった私は、
祖父、父が健在で程々の広さの田畑を耕作していた農家の子であった。

お正月の三が日が終わると、七草がゆ、鏡開き、そしてどんと焼きをしていた。

この頃は、旧家ではその家なりに工夫して、『どんと焼き』を行っていたのである

私の実家に於いては、田畑の外れに青竹を10数本ぐらい建てかけ主柱として、
稲の藁(わら)で覆(おお)いながら高い塔のように10メートル前後に作り上げた後、
旧年で使用していた注連縄(しめなわ)、御札(おふだ)、
新年に彩った輪飾りなどを清めた後、燃やしたりした。
そのまじかで、枝葉に幾つも付けた団子をこの燃え上がる火で焼いたりしていた。

このようなことを思い馳(はせ)たりしていた・・。


古人達は、20日正月と称していたので、先程調べていたら、
藤野邦夫・著の『幸せ暮らしの歳時記』(講談社文庫)に於いて、
次のように述べられていた。

【・・
『20日正月』とは、正月の祝い納めをし、1月15日の『小正月』の飾り物などを片付ける日のことである。
つまり、元旦から始まった正月が、完全に終結する日を意味して折、
雪に閉ざされて、余り仕事もないこの季節を、
少しでも明るく過ごそうととする心情がが、
このような制度を作りだしたのではないだろうか。

小正月も20日正月も、今では地方にしか見られない風習になっているが、
かっての小正月は、それなりに重要な新年の行事だったのだ。
15日の朝、一年の健康を願う『小豆(あずき)がゆ』を食べる風習が各地で見られたり、
豊作を願って木に『繭玉(まゆだま)』を飾ったり、
若者が鬼の面をかぶって蓑(ミノ)を着け、家々を訪問して、怠け者を探し廻る儀礼などが行われたものだった。

今でも15日に、火を燃やして正月の飾りや書き初めなどを焼く『左義長(さぎちょう)』や、
『ドンド焼き』を、盛大に行う地方が少なくないらしい。
この火にあたると、1年間、風邪を退かないと云われてきたのである。
こうしてみると、小正月は健康と豊作などを祈る儀式だった訳であり、
20日正月は、そのお終(しま)いの日だったのだろう。



以上、無断であるが引用させて頂きました。


私は遠い昔のことは、忘れかけていた。
『小豆がゆ』も確かに頂いたこともあったし、
どんど焼も子供心にも風邪を退かないようにと、火に近づいたりした。

枝葉につけた数多いの団子も食べたりしたが、
この枝葉は宅地の外れにあった雑木林の大きな樹木から採っていたのであるが、
何の樹木から採ったのかは・・想いだせないでいる。

・・】


このように綴っていたのであるが、
我家は私が小学2年3学期に父が病死し、そして祖父も小学三年の一学期に亡くなり、
男手の大黒柱を失った実家は没落しはじめ、『どんと焼き』も取りやめたのである。

そして、まもなく実家の周辺も住宅街に変貌し、
私が小学校を卒業する頃になると、どの旧家でも『どんと焼き』をすることなく、
最寄の神社などに注連縄(しめなわ)、御札(おふだ)、輪飾りなどを持ち寄って、
神社の境内で共同の『どんと焼き』となったのである。

私は、その家なりの『どんと焼き』に愛惜を深めたためか、
神社で各家の持ち寄った『どんと焼き』には興味がなく、
これ以来、私が幼年期に体験した実家の『どんと焼き』が心の宝物と思い、
今日に至っているのである。



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冬の朝、私は『冬景色』に愛惜を秘め・・♪

2009-01-13 09:58:57 | 音 楽
東京郊外の調布市に住む私は、年金生活の5年生の身であり、
いつものように日の出の7時前には、起床している。

今朝は幾分寒いかしら、と思いながら、
居間のガスファン・ヒーターの暖房を点けた。
急速暖房のスイッチを指定しても、1度が表示されていた。
15分程度が過ぎれば、遅くても居間は17度くらい暖かくなるのであり、
ネットで地元の天気情報を見たりした。

朝の6時はマイナス2度、昼下がりは9度、そして夜の6時は5度となり、
冬晴れで風もなくおだやかな1日となるが、
今年一番の寒い朝かしら、と感じたりしたのである。

そして、雨戸を開けたり、新聞を取り込んだりした後、
主庭のテラスで煙草を喫ったりした。
冬木立の樹木を眺めたり、黒土が霜で薄っすらと白く染められて、
しばらく眺めていたのである・・。

私の母の命日だったと思ったりした後、

♪さ霧(ぎり)消ゆる 湊江(みなとえ)の
 舟に白し、朝の霜。

【 『冬景色』 作詞・不詳 】

と何気なしに心の中で唄っていたのである。


この後、家内にコーヒーを淹れたりした後、
NHKの7時のニュースが始まる頃であった。
そして世の中の多くの方は、3連休明けで何かとお忙しいと思いながら、
私の定年退職前の5年間は、起床が4時45分で始発のバスに乗り、
小田急線の電車の通勤途上で日の出を迎えたりしていたので、
あんな時代もあったなぁ、と苦笑したりしたのである。

7時半過ぎに、まばゆい朝の陽射しを受けながら、
このサイトに何を綴ろうか、と思案したりしたのである。

昨夜、テレビ・ドラマの『そうか、もう君はいないのか』を視聴したので、
批評文を綴ろうか、と思ったりしたが、
城山三郎氏の奥様が亡くなわれた前後の数々の随筆の原作を読んだりしていたので、
このテレビドラマの作品は、残された人生の切実感が乏しく、失望したのである。
何より、城山三郎氏に扮した田村正和氏の演技は、
私は初めて真剣に観た作品であるが、人生の苦楽の表情、しぐさ等の表現が出来ないので、
期待していたに係わらずミスキャストである。


この後、私はこのサイトでこの時節に於いて、
どのようなことを投稿していたか、読んだりしたのである。

昨年の1月25日に於いて、
【今朝の鼻歌は、『冬景色』となり・・♪】と題して、
投稿していたのである。

【・・
東京の郊外は、昨日は冬晴れであったが、
午前11時前後から、ときおり風が強く吹いて、寒い一日であった。

昼下り家内の母より、旅先の佐渡島より電話があり、
両津港~新潟港のフェリーが欠航しているので、帰京を延ばす、
と連絡を受けたりした。

家内の母は、冬の佐渡島を旅友達と3泊4日で観光めぐりをしていたが、
暴風雪に遭遇してしまったのである。

『せっかく行かれたのだから・・
仲良しグループとゆっくりと・・』
と私は家内の母に云ったりしていた。

『そうよねぇ・・』
と家内の母は笑いながら云ったりしていた。

私は家内の母の77歳の身を案じたが、
国内旅行の好きな仲間同士であり、心身健在の時に行きたい時に行かればよい、
と日頃から思っているので、
家内と微苦笑をしながら話あっている。


今朝は6時半過ぎに庭のテラスに下り立つと、
黒土に霜柱が見られた・・。

私はこのような情景を眺めたりしていると、


♪さ霧(ぎり)消ゆる 湊江(みなとえ)の
 舟に白し、朝の霜。

【 『冬景色』 作詞・不詳 】


と何気なしに小声で唄ったりした。


♪ただ水鳥の 声はして
 いまだ覚(さ)めず、岸の家。

【 『冬景色』 作詞・不詳 】


私はサラリーマンを35年間をした後、
年金生活をしている63歳の身であるが、何かと長年、身過ぎ世過ぎしているので、
こうした歌から濾過(ろか)がされ、心の純潔が取り戻されるようで、
私は好きな歌のひとつである。

居間に戻ると、テレビは、
東京の郊外は、朝の6時はマイナス1度、日中は冬晴れで6度前後で風はおだやかです、
と報じていた。

・・】


そして、2006年1月26日の綴りのひとつには、
【『冬景色』を聴くとき・・♪】と題して、
投稿していたのである。

【・・
私は、ときたま唱歌を聴くときがある。

冬の季節には、『冬景色』は私の好きな唱歌のひとつである。

作詞はどなたが創られた不明であるので、《文部省唱歌》となっている。


♪さ霧消ゆる みなとえの
 舟に白し 朝の霜
 ただ水鳥の 声はして
 いまださめず 岸の家

【 『冬景色』 作詞・不詳 】


こうしたのを聴いたりすると、どなたが歌っても、
私はときたま涙ぐんでしまう時がある・・。

遠い幼年期を想いださせるのか、
或いは失ってしまった純粋な心を甦させようとする
もうひとりの自分に哀歓を寄せているのかは解らない。

何より、この作詞の日本語は、はかなく美しい。

私は詩の世界は理解する素養はないが、
声により唄いつながれて行く言葉の結晶である作詞の世界は解るつもりである。

・・】


このように拙(つたな)い投稿文を読み返し、私は微苦笑してのである。




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今宵は、ドラマ『そうか、もう君はいないのか』・・♪

2009-01-12 19:39:48 | 映画・テレビ
亡き作家の城山三郎氏の生前このご夫妻の情愛を描くテレビ・ドラマが、
今宵の9時過ぎからTBSで放映されると知ったのは、
過日7日の読売新聞の夕刊であった。

http://www.tbs.co.jp/mou-kimiwa/

私は日頃から、城山三郎氏の遺された小説、特に随筆に感銘を受けて、
敬愛しているひとりであるので、
ドラマは脚色が多いと思われるが、視聴しようかしらと思ったりしている。


私もたびたび城山三郎氏に関しては綴っているが、
【齢を重ねると、深化するか、或いは退廃か・・♪】と題して、
このサイトに私自身の誕生日記念に投稿しているが、あえて再掲載をする。

【・・
私は恥ずかしながら、満64歳の誕生日を迎えた。

私は民間会社に35年ばかり勤め定年退職後、
残された人生の日々を自身の趣味で過ごしたく、
年金生活とした。

数多くの人たちと同様に多忙だった現役時代であったので、
せめて人生の後半戦ぐらいは、読書と散策などをし、
ときには国内旅行で各地の四季折々の情景に心を寄せれば、
本望かしらと思っていた。

そして、私の何よりの望みは、こうした日常生活をし、
心の発露として散文を綴ることである。

幸い退職後まもなくして、ブログの世界を知り、
四つばかりのサイトに書き散らかしてきた。


私の根底には、退職後の1年を過ぎた頃、
作家・城山三郎氏の『無所属の時間に生きる』の随筆集を読んでいた時、
『この日、この空、この私』の一節を教訓としている。

【・・

人生の持ち時間に大差はない。
問題はいかに深く生きるか、である。
深く生きた記憶をどれほど持ったかで、
その人の人生は豊かなものにも、貧しいものになるし、
深く生きるためには、ただ受け身なだけでなく、
あえて挑むとか、打って出ることも、
肝要となろう。

・・】


年金生活の4年生の身であるが、
果たして振り返った時、私自身は深化したか、
或いは身体の衰えに甘えて、退廃したか解からない。

私は先ほど、自身の過去に綴った投稿文を読み返していたりしたが、
この人生に微笑みをと、微苦笑するしかないのである。

・・】



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ときには、イタリア音楽に酔いしれて・・♪

2009-01-12 09:08:02 | 音 楽
東京郊外の調布市に住む私は、
主庭のテラスで煙草を喫いながら、朝のまばゆい陽射しを受けて、
少しぼんやりとしている・・。


昨日、このサイトに【私達は、天上の母に守られて、早や10数年・・。】
と題して、投稿した通り、
私達夫婦は妹の2人と駅前で、待ち合わせ、お墓参りをした。

この後、予約していたイタリア料理店で昼食を頂きがら、
懇親したのであった。
私は『毎年・・こうして・・10年先まで・・逢えるといいね・・』
と妹の2人に云ったりしたのであった。

私は64歳で、妹は62、60歳であり、家内も59歳の身であるので、
心身健在であればこそ、こうして母の命日に近い日に、
お墓参りをしたり、その後は昼食を兼ねて懇親できるのである。
私の現役時代の50代の時、私の余り変わらない方が亡くなったり、
先輩の方の中で、60歳を少し過ぎた時、突然に訃報に接したりしてきたのである。
このような体験もあり、いつこの世と告別するか、
解からないのであり、私は1日を大切にし、切実に過ごしている。


この後、妹と別れた後、
家内と新宿のデパートに買物に行き、家内のコートを買い求め、
帰宅したのである。

夕食後、私は少し疲れていたが、
何かしらイタリアの音楽を聴きたくなったのである。
この所、音楽をじっくりと聴いたこともなく、脳裏が乾いていたと思われ、
昼時にイタリア料理店でイタリアの名曲が流れていたのが、
記憶の片隅に残っていたと思われる・・。


私は音楽棚の中から、とりあえず一枚のCDを取り出した。
『パヴァロッティ&フレンズ’94』と題して、
ルチアーノ・パヴァロッティがブライアン・アダムス等を招いたチャリティーのライブである。

私は『ローマのギター』、『はるかるサンタ・ルチア』、『オ・ソレ・ミオ』、
『アヴェ。マリア』、『乾杯の歌』などの名曲に酔いしれ、
心の乾きを癒(いや)されたのである。

このような日もあると苦笑しながら、
私は寝室に総合月刊雑誌の『文藝春秋』、『中央公論』を持ち込んで、
深夜まで読んだりしていた。



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