北朝鮮の咸鏡北道、清津でのかつての悲惨な飢餓の実態のことは前回で紹介しました。国連世界食糧計画WFPの報告です。清津は道都の港湾都市。推定人口は60万人弱とされています。この清津で最近に注目すべき事件が起きたことを、韓国の「デイリーNK」が22日に伝えました。
共同通信によると、昨年12月17日から29日までの間、金正日総書記の哀悼期間中に、公安機関幹部4人がつぎつぎと殺害された。その内ひとりの遺体のそばには、「人民の名で処断する」と書いた紙きれが残されていた。
連続殺人の被害者は、国家安全保衛部(秘密警察)や人民保安部などの地元幹部である。住民は両機関に大きな不満をもっている。暴力的な住民統制や、賄賂の要求などである。犯行は反体制的な目的によるものとの見方も出ているとNKは伝えている。
たいへん危険な兆候だと思います。金体制が揺らぐ可能性だけではありません。咸鏡北道の住民たちにとっても、いま同地で滞っているとされる食糧配給が停止され、ぼうだいな餓死者がまた出るという、再度の仕返しを受ける危険を感じるからです。萩原遼氏の著作から咸鏡南北道のことを記します。
韓国に亡命した北朝鮮最高幹部だった黄長などの証言から、1990年代後半の北の餓死者は300万人をこえた事実が公になっている。なかでも深刻な食糧不足は北東部に位置する咸鏡道に集中する。この地方での飢餓は、食糧供給を停止するという残酷な手法により、金正日が意図的に計画した大量殺人である。
なぜなら国際援助の食糧が大量に入りはじめていたのに、餓死者が急増した。また北朝鮮はその当時、毎年300万トン近くの食糧を輸入している。国内生産がもしゼロでも、全国民をすべて食わせていける分量である。そして餓死者は、金王朝の敵対層の多く住む咸鏡南北道に集中している。
食糧を外国に輸出してしまったために絶対的に不足したとしか考えられない。理由は、外貨獲得のためである。そのため咸鏡道の多くの住民が犠牲にされてしまった。
咸鏡道出身者は甲山派とよばれていた。朝鮮労働党のなかで、かつては甲山派人脈が重きをなしていた。しかし金日成と正日は独裁体制の確立のために、甲山派を根こそぎ粛清した。また1995年には金正日体制を倒そうとしたクーデターが失敗した。そして旧甲山派の残党はみな摘発されてしまった。金正日にとって咸鏡道住民は、体制を危うくさせる最大の脅威とみなしている。またかつて日本から北に帰国した在日同胞も、労働者として多くが咸鏡道に住まわされた。
「北朝鮮の北東部は、まつろわぬ地であり、まつろわぬ人民たちであった。敵対階層が多く住み、かれらは一朝有事のさいには韓国軍に協力して平壌政権に公然と反旗をひるがえすとみて戦々恐々とし、つね日ごろから監視しつづけているのである」
金王朝の「敵はアメリカでも韓国でもない。もっとも恐ろしいのが国内の人民、なかでも主として咸鏡南北道に住む数百万人余の敵対階層である」
咸鏡北道の清津の連続殺人事件の意味は、決して軽くないはずだ。
ところで金正日が死去したのは17日とされ、発表は19日の正午でした。中国はいち早く極秘情報を死去当日に得た。そして胡錦濤が命じたのはまず中朝国境地帯に軍を増派し、警備を固めること。そして驚くべきことに、瀋陽軍区の多数の朝鮮部族隊が17日夜に、軍用トラックで北朝鮮国内の主要都市や平壌に送り込まれた。彼らは中国軍兵士であるのに、全員が朝鮮人民軍の軍服姿であった。朝鮮族の彼らは、言葉も外見も朝鮮人である。
2010年8月に中国を訪れた金正日は胡錦濤に「自分の身に何かあれば、正恩のことを頼みます」と中国軍の緊急時派遣を要請していた。胡主席はこのときの約束を、忠実に実行したのだという。(ウィリー・ラム“北京探題”「SAPIO」2012年2月1日8日号)
ただ注意すべきは、中国東北部に居住する朝鮮族は咸鏡道出身者が多いことである。
○参考引用書『金正日 隠された戦争ー金日成の死と大量餓死の謎を解くー』
萩原遼著 2004年文藝春秋刊 2006年文春文庫
<2012年1月23日>
共同通信によると、昨年12月17日から29日までの間、金正日総書記の哀悼期間中に、公安機関幹部4人がつぎつぎと殺害された。その内ひとりの遺体のそばには、「人民の名で処断する」と書いた紙きれが残されていた。
連続殺人の被害者は、国家安全保衛部(秘密警察)や人民保安部などの地元幹部である。住民は両機関に大きな不満をもっている。暴力的な住民統制や、賄賂の要求などである。犯行は反体制的な目的によるものとの見方も出ているとNKは伝えている。
たいへん危険な兆候だと思います。金体制が揺らぐ可能性だけではありません。咸鏡北道の住民たちにとっても、いま同地で滞っているとされる食糧配給が停止され、ぼうだいな餓死者がまた出るという、再度の仕返しを受ける危険を感じるからです。萩原遼氏の著作から咸鏡南北道のことを記します。
韓国に亡命した北朝鮮最高幹部だった黄長などの証言から、1990年代後半の北の餓死者は300万人をこえた事実が公になっている。なかでも深刻な食糧不足は北東部に位置する咸鏡道に集中する。この地方での飢餓は、食糧供給を停止するという残酷な手法により、金正日が意図的に計画した大量殺人である。
なぜなら国際援助の食糧が大量に入りはじめていたのに、餓死者が急増した。また北朝鮮はその当時、毎年300万トン近くの食糧を輸入している。国内生産がもしゼロでも、全国民をすべて食わせていける分量である。そして餓死者は、金王朝の敵対層の多く住む咸鏡南北道に集中している。
食糧を外国に輸出してしまったために絶対的に不足したとしか考えられない。理由は、外貨獲得のためである。そのため咸鏡道の多くの住民が犠牲にされてしまった。
咸鏡道出身者は甲山派とよばれていた。朝鮮労働党のなかで、かつては甲山派人脈が重きをなしていた。しかし金日成と正日は独裁体制の確立のために、甲山派を根こそぎ粛清した。また1995年には金正日体制を倒そうとしたクーデターが失敗した。そして旧甲山派の残党はみな摘発されてしまった。金正日にとって咸鏡道住民は、体制を危うくさせる最大の脅威とみなしている。またかつて日本から北に帰国した在日同胞も、労働者として多くが咸鏡道に住まわされた。
「北朝鮮の北東部は、まつろわぬ地であり、まつろわぬ人民たちであった。敵対階層が多く住み、かれらは一朝有事のさいには韓国軍に協力して平壌政権に公然と反旗をひるがえすとみて戦々恐々とし、つね日ごろから監視しつづけているのである」
金王朝の「敵はアメリカでも韓国でもない。もっとも恐ろしいのが国内の人民、なかでも主として咸鏡南北道に住む数百万人余の敵対階層である」
咸鏡北道の清津の連続殺人事件の意味は、決して軽くないはずだ。
ところで金正日が死去したのは17日とされ、発表は19日の正午でした。中国はいち早く極秘情報を死去当日に得た。そして胡錦濤が命じたのはまず中朝国境地帯に軍を増派し、警備を固めること。そして驚くべきことに、瀋陽軍区の多数の朝鮮部族隊が17日夜に、軍用トラックで北朝鮮国内の主要都市や平壌に送り込まれた。彼らは中国軍兵士であるのに、全員が朝鮮人民軍の軍服姿であった。朝鮮族の彼らは、言葉も外見も朝鮮人である。
2010年8月に中国を訪れた金正日は胡錦濤に「自分の身に何かあれば、正恩のことを頼みます」と中国軍の緊急時派遣を要請していた。胡主席はこのときの約束を、忠実に実行したのだという。(ウィリー・ラム“北京探題”「SAPIO」2012年2月1日8日号)
ただ注意すべきは、中国東北部に居住する朝鮮族は咸鏡道出身者が多いことである。
○参考引用書『金正日 隠された戦争ー金日成の死と大量餓死の謎を解くー』
萩原遼著 2004年文藝春秋刊 2006年文春文庫
<2012年1月23日>