人は誰しも夢見心地(ゆめみごこち)に憧(あこが)れる。汗水(あせみず)を流して齷齪(あくせく)働いていようといなかろうと、誰しもがそう思うものだ。人間の欲とは凄(すさ)まじいもので、飽(あ)きることを知らない。誰の目にも、アノ方はさぞユートピアで夢見心地なんだろうな…と思えても、アノ方にすれば決してそうではなく、より以上のユートピアがあり、ソコの夢見心地を味わいたい…と思っているものだ。ここに登場する橋場(はしば)も、そんな中の一人だった。
風が流れていた。夏が去り、少し寂しげな秋風が流れ始める頃、別荘で一人、橋場は深い溜息(ためいき)を吐(つ)いていた。避暑目的で、あれだけ訪れていた来訪者も、夏の終わりの鰯雲が時おり現れる頃になると、バッタリと姿を消した。一人残された橋場は大サッシのガラス戸を開け、浜から流れる潮風を感じた。
「毎度! 三河屋ですっ! 注文の品、お届けにっ!」
勢いのいい声が垣伝いに聞こえた。橋場にすれば、久しぶりに聞く人の声である。橋場は人に戻(もど)った気分を感じた。いや、それは取り戻した・・と言った方が正しいような気分だった。
「ああ、ごくろうさん! 開いてるから。よかったら、上がってよ…」
「いや、急いでますんで、どうもっ! また、ご贔屓(ひいき)にっ!!」
玄関ドアを閉める音がした。
橋場は努力の挙句(あげく)、成金と今の地位を築いた。そして、憧れていた夢見心地を実現させようと、この地に別荘を建てさせたのである。突貫工事だった。完成のあと、多くの祝い客が訪れ、しばらくは来訪者があとを絶(た)たなかった。その数は次第に減りはしたが、それでも夏が近づけば、ふたたび多くの来訪者で活気づいたから、橋場はそれほど気に留(と)めなかった。が、しかしである。夏が去り、少し寂しげな秋風が流れ始める頃になると、別荘で一人、橋場は深い溜息(ためいき)を吐(つ)いていた。夢見心地は、もはやどこにもなかった。夢見心地は憧れていた間が夢見心地だったのかもしれん…と、橋場は、また深い溜息を一つ吐いた。そのとき、電話音がした。長い間、授からなかった我が子が生まれた朗報だった。
完