一つのコトやモノが上手(うま)くいかなくなると、大かたの人は、そのコトやモノをゴチャゴチャと弄(いじ)くり始める。分かっていて弄くっているのならいいが、大かたの場合は分かっていない場合が多い。そうすると、どうなるか? 分かりきったことである。益(ます)々、ゴチャゴチャして、収束(しゅうそく)が着かないことになる。それだけならまだいいが、お釈迦さまという有難い仏さまになる、要は、お釈迦になる・・使えなくなる・・という訳だ。この有難い仏さまに至(いた)るまでには隠れた霊的な思考力が介在(かいざい)する。この霊的な思考力は他の人の目には見えないから、当然ながらその人がしているように他人の目には映る。だが、事実はそうではないのだから怖(こわ)い。
「ああ!! ダメだぁ~~~っ!!!」
傷(いた)んだ、とあるモノを修理をしようとコトを始めた、とある一人の男が、ついにゴチャゴチャ弄くるのを諦(あきら)め、そのモノを放り投げた。
このゴチャゴチャにならず、コチャコチャぐらいで終わる人、さらにはコチャのあと、スイスイ…と移行する人、スイスイスイスイ…と、すぐ移行する人の個人差はある。こういったゴチャゴチャにならない人にはお釈迦さまが近づかないから、お医者さまという偉い先生に向いているということになる。誰しもこの方向へ進みたいのだが、そこはそれ、生まれ持っての個人差はあるから仕方がない。ただ、このゴチャゴチャを避(さ)ける方法が二つある。ゴチャついたとき、無心となる修養を積む方法と逆に転ずる方法だ。無心となる修養を積む方法は、長い時を費やす心の鍛錬(たんれん)を必要とする。この具体例が妖刀を生んだ若き刀匠、村正だ。彼の晩年の作は剣聖と呼ぶ人もある刀匠、正宗にも引けを取らない・・と言われている。そしてもう一つ、ゴチャゴチャを逆に転ずる方法だが、そのコトから遠ざかる方法である。この具体例が依存症の治療法だ。遠ざかる(忘れる)ことで冷静になり、ゴチャゴチャしない・・という訳だ。これで隠れたゴチャゴチャは身体から出て、遠くの彼方(かなた)へとゴチャゴチャしそうな人を求めて消え去るのである。嘘(うそ)と思われるなら、皆さんも一つ、お試(ため)しあれ。^^
完