水本爽涼 歳時記

日本の四季を織り交ぜて描くエッセイ、詩、作詞、創作台本、シナリオ、小説などの小部屋です。

隠れたユーモア短編集-3- 味(あじ)

2017年07月22日 00時00分00秒 | #小説

 ここは予約制の、とある高級レストランである。
『ほう…これは、なかなか美味(うま)いな。しばらく出会っていない味だ』
 伊戸公(いとこう)商事の元会長、伊戸公兵衛は悠々自適の身になった今、味覚の旅を楽しみにしていた。食べ終えた伊戸は支払いを済ませると、徐(おもむろ)に店を出ようとしたが、ふと、立ち止まった。
「君、済まないが料理長を呼んでくれないか。少し、訊(たず)ねたいことがある・・と言ってもらえばいい」
「は、はいっ!!」
 タキシード姿のレジ係は、慌(あわ)てて厨房(ちゅうぼう)へと駆け出した。店の従業員全員には、財閥の総帥(そうすい)である伊戸が来店することは周知徹底されていたから当然、レジ係も知っていた。しかも、この日のレストラン客は伊戸だけで、貸切の状態だった。というのも、このレストランは、伊戸公ホールディングスの孫会社系列の傘下にあったためである。
 数分もしないうちに、総料理長が走って現れた。
「…も、申し訳ございません。お待たせをいたしました。なんぞ、ご機嫌を損(そこ)なうことがございましたでしょうか?」
「いや、そうじゃないんだよ。先ほどの料理の隠し味、なかなか絶妙だったよ」
「はっ! お口に合いましたで、ございましょうかっ! 態々(わざわざ)の申し出、誠にありがとう存じます。今後とも、お引き立て賜りますよう…」
 総料理長とレジ係は深々と伊戸に一礼した。
「ああ…。あの隠れた味はいい。最近、お目にかかれなかった味だが、アレは何かね?」
「はあ! その件に関しましては、お答えしたいのではございますが、当店の極秘事項でございまして、誠に申し訳ございませんが、お話することは出来ないのでございます。なにとぞ、ご了解賜りますよう、お願いをいたします」
「あっ! そうなの。それならいいから…。いや、呼び出すほどのことでもなかったんだが、申し訳ない」
「いえ、何をおっしゃいますやら…」
 総料理長は白高の帽子(トックブランシェ)から冷や汗を流しながら恐縮した。伊戸は暮れた味の正体が判明せず、残念でしようがなかった。
『よしっ! こうなったら、何がなんでも、正体を突き止めるぞ…』
 その日から、伊戸公ホールディングスの総力を挙げての追跡が始まった。聞いたところによれば、未(いま)だに続いているそうである。

                              


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