欲しかったメモを手に、篠畑(しのはた)はDIY[自身でやる]材料を調達しようと買い物に出かけた。メモどおりに買えば、そう手間取らないな…と篠畑はごく普通に思った。だが、その思いは完璧(かんぺき)に甘かった。
篠畑がDIY販売店に着くと、思ったとおりメモ書きした材料はあった。あったことはあったが、その種類のなんと多いことか。篠畑はそこまで細かくメモしていなかったから迷いに迷った。どれも使えそうで使えそうでないサイズや種類の多さで、これなら計ってから来るんだった…と悔(く)やまれた。耐火性を重視すればステンレスである。今までのものは、ただの一斗缶(いっとかん)を加工しただけの鉄の薄板だったから、繰(く)り返し使っているうちに短期間で腐食(ふしょく)し、ボロボロになってしまった。そこで篠畑は腐食しない耐用の長い金属板を手に入れようと出かけたのである。
DIY店へ入ると、板はアルミ製、ステンレス製のものがあった。アルミ製は溶融(ようゆう)点が659℃、ステンレス製は1399~1454℃のものと1427~1510℃の2タイプがあった。篠畑は値段が安いということと、まあ耐火性が600℃ぐらいあればいいだろう…ということで、アルミ製の板を買って帰った。
買って帰ると、そのアルミ製の板が、なんとも頼りなく思えてきた。ひょっとすると、炎の熱で簡単に曲がってしまうのでは…という不安感も出てきた。ここで篠畑の隠れた才が脳裏に浮かんだ。これでは恐らく駄目だろう。今からでも遅くないから買い物に出よう…という発想だった。昼は回っていたがハングリー精神で篠畑は買い物に出た。買ってしまったアルミ板は他に回せばいい…と篠畑は隠れた才で思った。
耐火性を考慮に入れ、篠畑は1427~1510℃のタイプのステンレス板を店で買って帰った。アルミ製の板は、物置の湿気(しけ)る紙箱の下に敷くことにした。我ながら適材適所の有効利用法だったから、買いミスを補う自身の隠れた才を篠畑はヒシヒシと肌に感じた。ニンマリと笑うと、篠畑は独(ひと)り、悦(えつ)に入って達成感を得た。
完
初めはいいが、何度も履(は)いていると靴下は破れて穴があく。なにも穴があきたくて靴下は穴があく訳でないことは誰にも分かる。穴があいて破れないと、新しい靴下を買ってもらえないから、靴下は破れるのだ・・と考えるのが妥当なのだ。買ってもらえないと製造する会社、平(ひら)たく言えば、そこで働く人々の生活を脅(おびや)かすことになる訳だ。売れないと儲(もう)けが出なくなり、お金が働く人々に渡せなくなるためだ。ということは、靴下の穴は働く人々の生活に貢献(こうけん)している・・と、まあこう見るのが正解のようである。
今朝も穴があいた靴下に気づき、足川は破れた靴下を新しいのと履(は)きかえた。足川は靴下の製造会社で古くから働く社員だ。自社製品を当然ながら履いている訳だが、今朝は妙なことに気づいた。
━ 営業で靴下の契約を取るために働いているが、その靴下が破れるということは、どうなんだ?━
と思えたのである。そう思うと、俄(にわ)かに足川の動きが緩慢(かんまん)になった。出社の時間が迫っていた。足川は、まあ、いいか…と玄関を出ると、車を始動した。新しい靴下だから履き心地は抜群だ。会社の駐車場に車を止めたとき、足川はふと、浮かんだ。そうか! 靴下の穴は自分の生活を支える隠れた立役者なんだと…。回り回った結論ながら、足川はなぜか得心できた。
完
人には困ったことに、究極の困難という切羽(せっぱ)詰まることが人生で何度か訪れる。もちろん、一度も訪れず、人生を平穏無事に生きてお亡くなりになる方もなくはない。なくはないが、世間一般では通常、よく見受けられる。
久山は今年で85になる独居老人だ。妻に先立たれ、子供に恵まれなかったということもあり、今は寂しい身の上となってしまった。それでも久山は、自分のような身の上の人間は世間に五万といる…と考えられたから、まだよかった。孤独感に苛(さいな)まれ、思い余って自殺で命を落とす老人のニュースが、つい一週間ほど前にもテレビに流れたところだった。
梅雨(つゆ)が明け、ムッ! とする猛暑の熱気が身を包むようになると、久山は独自計画により夏対策を実施し始めた。久山にすれば熱中症で倒れる人たちの気が知れなかった。40℃だったら、フツゥ~ダメだろうが…と久山は考えた。首から水筒をブラ提(さ)げ、片時も水を絶やさなかった。喉が渇こうと渇くまいと、一定時間でグビリグビリと飲んだ。朝からステーキを食べ、高蛋白、メガビタミンを心がけた。お陰で、この独自計画が功を奏し、究極の困難は久山には訪れなかった。その生活リズムが20年以上続き、今は85になる久山だった。
「どれ、暑いが久しぶりに映画でも観るか…」
久山は観たかった懐(なつ)かしの映画を観ようと、着物姿で街へ出た。水筒は相変わらず首から提げ、冷房で十分、身体を冷やしてから家を出た。万事抜かりないように久山には思えた。バスで街へ出て街に着く頃になると、急激に体温が高まり、汗が滲(にじ)み始めた。いかん、いかん…と久山は水筒の水を、いつものようにグビリグビリと飲んだ。これが、いけなかった。正確に言えば、この日の水がいけなかった。高温と洗っていなかった水筒の所為(せい)で中の水が痛んでいたのだった。しばらくすると俄(にわ)かに差し込むような痛みが久山の腹に走った。
「ぅぅぅ…」
痛みは便意をともない、急速に強くなった。久山はそのとき、多くの群衆の中に閉じ込められていた。身動きがとれず、トイレを探す騒ぎの話ではない。久山に訪れた究極の困難だった。
「ぉぉぉ…」
いつの間にか、ぅぅぅ…がぉぉぉ…?になっていた。久山は戦場の兵士のように死に物狂いで敵陣突破を敢行(かんこう)した。その甲斐(かい)あってか、なんとか群集から逃(のが)れられた。逃れられたとはいえ、まだ痛みは消えていなかった。当然、便意も強まり、限界が近づいていた。幸い、遠くに公衆便所が久山の目に入った。久山は一目散に走ったが漏れそうになり危うく止まった。こうなれば仕方がない。チラホラと通る人の目もある。ここは究極の困難からいかに逃れるか・・である。久山は一歩(いっぽ)、そしてまた一歩と歩(ほ)を進めた。ようやくトイレへ駆け込み用を足し終えたとき、究極の困難は久山から去ったように思えた。ところが、ドッコイ! である。トイレット・ペーパーがなかった。迂闊(うかつ)にも、そのときの久山には手持ちの紙がない。さあ、どうする、久山!
久山はステテコを脱いで拭(ふ)くと、勢いよく水にジャァ~~と流した。下着は身に着けていなかったから、急に涼しげになり心地いい。久山は悠然(ゆうぜんと公衆便所から出た。気持よく漫(そぞ)ろ歩くと、下半身の心地よい事情で、汗も出ない。これはいいぞ…と久山は思った。究極の困難が至福にチェンジしたかのようだった。そのとき、一陣の風が…。俺はマリリン・モンローかっ! と、思わず久山は着物の裾(すそ)を両手で押さえた。それが久山に訪れたふたたびの究極の困難だった。
完
選挙が終わってみると、結果は芋川(いもかわ)が予想したとおりだった。芋川はどう予想していたのか? それは次のようなものである。野党は一枚岩ではなく政府与党の受け皿になるだけの政権担当能力を具備していない。だとすれば、どうなのか・・である。国民は政治に対してほんのひと握りの期待も抱(いだ)けなくなる。これは表面上に現れないメンタルな諦(あきら)めの境地だ。さらに芋川はアレコレと巡った。諦めれば当然、投票行動が萎(な)えたり、まあ、現状のままでいいか…といった投げやりな発想を抱く者も増す。すると結果は、どうなる? 野党は勝てないだろう…。これが芋川の結論的な予想だった。そして終わってみれば、やはり芋川が出した予想は、芋を食べればガスが出るように当たっていたのである。芋川にとっては臭(くさ)く、当たって欲しくない予想だった。だが、奇跡は起こらず終(じま)いだった。受け皿がないと高所から転落した国民は死ぬ危険が大きい。いや、それどころか、必ず死に至るだろう。そうなることを未然に防止する受け皿はセフティネットだが、せめて命綱をつけて下りないと崖下(がけした)へと転落してしまう。芋川の脳裏にふと、かつて登った雪渓(せっけい)を残す夏山の雄姿(ゆうし)が甦(よみがえ)って浮かんだ。
完
人は誰も最後を満足できる結果で終わりたいと思う。有終の美である。このグッドなエンドを求め、人はバッド・エンドに終わる最悪のシナリオから逃れようとするのだ。そして今日も、この男、獅子唐(ししとう)は、その挑戦を続けていた。
「どうして君は、こうなんだろうね…。まともな報告書を見せてくれたことは一度もないじゃないか」
「さあ、どうしてなんでしょうね?」
「君が訊(き)いてどうするんだ。私が訊いてるんだから」
「はあ…私としても今回は有終の美を飾ろうとはしたんですけれど…」
「有終の美? そんなものは夢物語だ、これじゃ…」
課長の鞘豆(さやまめ)は、部下の獅子唐の目の前で報告書を散らつかせながら、やや強めの口調で言った。獅子唐にしても、なにもバッド・エンドでは終わりたくない訳である。いや、それどころか獅子唐は心から、今度こそ有終の美で終わろう…と決意していたのだ。収穫され、課長の鞘豆から美味(おい)しいお褒(ほ)めの言葉の一つも頂戴(ちょうだい)できれば…というのが、偽(いつわ)らざる獅子唐の本音だった。だが今回も、その願いは虚(むな)しく徒労(とろう)に帰したのである。
「はあ…」
「君の場合、有終の美はいいから、とにかく間違えはなくすように…」
「はい! 分かりました…」
「これは私がやっておくから、もう、席へ戻(もど)ってよろしい」
鞘豆の言葉を聞き終えたあと、獅子唐は冷蔵庫の中のいつもの席へと戻った。
完
困ったことに日本はいつの頃からか、物に対する考え方が使い捨て感覚になった。いつから? とは正確に示せないが、戦後の復興が進み、物が豊かになってくるとともに、その傾向は強まったように思える。使い捨て感覚が蔓延(はびこ)るそれまでは拾(ひろ)いまくられた煙草(たばこ)の吸殻(すいがら)は、巻きなおされて売られ、商売になった終戦直後の時代もあったのだ。それが、フィルターと呼ばれる時代が訪れると、ポイッ! と使い捨て感覚で地面に捨てられるようになった。この感覚は、人のすべての生活に及ぶから、この感覚に毒された人は、すべてを軽く捨てるようになるから困る。もちろん、そんな感覚にならない人も多数いる訳だが…。
「君ね…悪いが、次の異動では子会社へ出向してもらうよ。もちろん、支社長としてだがね。な~に、一年の辛抱(しんぼう)だよ。一年たてば、必ず私が呼び戻(もど)すから…」
専務派に破れた常務の脇川は、部長の小坂の肩に手をかけると、慰めるようにそう伝えた。すでに副社長に内定していた専務派の常務派追い落とし工作は始まっていた。小坂の出向は身の危険を食い止めるトカゲの尻尾(しっぽ)切りの色彩がなくもなかった。
「ぅぅぅ…常務! 無念ですっ!」
小坂は使い捨てられたかと一瞬、思ったが、戻れると聞かされ、そうでもないか…と、脇川にヨヨと縋(すが)り、泣きついたのである。
「ああ、私もだ、小坂君」
「ぅぅぅ…お、お願しますっ!」
「ああ…」
泣きつかれた脇川はどんな気分だったのか・・それは語るまでもないだろう。身の危険を未然に防ぐ使い捨て感覚の予防策だった。甘いのは砂糖だが、世の中、そうは甘くない。
完
八百(やお)は気分転換にスーパーへ買物に出た。朝が早かった・・ということもあり、人混みは少なく、いつもと違ってレジも割合、スンナリと通れた。取り分け、買い馴(な)れている・・という訳でもなかったが、場数(ばかず)を踏んでいる・・という自負はあった。
レジで係に言われた金額を支払い、カードを渡したときだった。
「このカードは使えなくなります。今ですと、あちらのサービスカウンターの方で無料で作り換えが出来ます…」
レジ係にそう言われ、八百は、ああ、そうなんだ、換わるのか…と単純に思いながら無言で頷(うなず)いた。有効期限で・・という話は今までなかったし、作り変えはカードが割れたときだけだったから、どんな事情なんだろう…と、八百には馬鹿っぽく思えた。出た結論は、システムの変更である。カードの磁気読み取り機能に新しい何かの機能が加わり、機能することになったんだろう…という機能的な結論だった。機械化は馬鹿っぽく、安定感がないな…とも思えた。思えたのはいいが、困ったことに次の瞬間、お釣りをフロアへ落としていた。
完
ここは、賓客(ひんきゃく)の到着を今か今かと待ちわびる、とある会社のエントランスである。困ったことに、会社の役員達にはその人物がどういう外見なのかが皆目(かいもく)、分かっていなかった。というのも、海外伝送システムの俄(にわ)かな故障で、肝心(かんじん)の写真などの人物データが何も届(とど)いていなかったからである。なんといっても、会社を経営危機から救おうという一流の海外総合商社の代表である。役員数人だけでは心もとないということで、管理職以下、総出の出迎えである。社員達の間では、いったいどういう人物が来るんだろう・・という風評が社内のアチコチで囁(ささや)かれていた。
「部長! どんな人なんでしょうねっ!」
「さあ、私にもさっぱり分からんよ。ははは…私に分かっていれば、今頃、アッチにいるよ」
人事部長の庭池(にわいけ)は課長の苔石(こけいし)に訊(き)かれ、最前列で立ち並ぶ役員達を指(ゆび)さした。
「ははは…そりゃ、そうですよねぇ~」
嫌(いや)なところで苔石に納得された庭池は、すっかりテンションを下げた。
問題の賓客の到着は午前10時頃という連絡があっただけで、海外支社からの連絡はその後、一切、途絶えていた。テロ関係の事件で海外との通信が国の指示で丸一日、遮断(しゃだん)された・・ということもある。
午前10時が迫っていた。約10分前になったとき、一人の貧相な身なりの男が現れた。役員一同は、まさかこの人が…と、誰しもが思った。
「ちと、ものを訊(たず)ねますが…」
身なりは貧相(ひんそう)だったが、語り口調は上品である。それでもまあ、海外の賓客→外国人…という普通の図式からすれば、本物(ほんもの)でないことは歴然としていた。
「あんたね、ここ邪魔だから。アチラで訊いて…」
役員の一人は、まるで厄介者(やっかいもの)を追い払うかのように片手を振りながら遠ざけた。
「まさか、アノ人は違いますよね、部長」
「ははは…アレが本物だったら、私は疾(と)うに社長だよっ、苔石君」
「ははは…それもそうです、部長」
後ろの列で、人事コンビがまたヒソヒソと語り合った。そのとき、数台の車がエントランスへ横づけされ停車した。誰の目にも、この方々こそ! と映った。車から降りてきたのは外人客で、もの珍しそうに社屋ビルを眺(なが)めた。
「ははは…ようこそ、わたしが社長の獅子脅(ししおどし)です」
獅子脅は歩み出て、片手を差し出し握手しようとした。
「オオッ! ココガッ!」
外人客も笑顔で握手に応じた。有名ホテルと勘違いしたのだ。
「さあ、どうぞ…」
数人の外人客は中へと通された。だが、この外人客は単なる観光客で、会社が待ち望んでいた賓客ではなかった。本物の見誤りは、外人客達の背広姿にあった・・といっても過言ではない。
その頃、追い払われた貧相な男は、入口の警備員と口論をしていた。
「外国から?! アンタねっ! これ以上、妙なことを言うと、警察に突き出すよっ!」
「ああ、突き出しなさいよっ! なんという会社だっ!」
貧相な男は旋毛(つむじ)を曲(ま)げてエントランスから去っていった。なにを隠そう、この方こそ、恐れ多くも先の副将軍、従三位(じゅさんみ)中納言、徳川光圀(とくがわみつくに)公ではないが・・賓客の海外商社代表で、二世社長の本物だった。
外人客達が賓客でないことはすぐに判明し、役員達一同はエントランスへと取って返した。だが、その後は誰も現れず、10時を過ぎ、すでに11時を回っていた。
「来られないねぇ~」「来られませんねぇ~」
だから、やってみなくちゃ・・ではないが、本物は外見では分からない。
完
最近の都会では激しい雨が降ると、雨水(あまみず)が逃げ場を失ってコンクリートやアスファルトのあちこちから溢(あふ)れ出る。人は脚元(あしもと)が濡(ぬ)れて弱るが、雨水にしたって好きで溢れている訳ではない上に逃げ道を塞(ふさ)がれるから大弱りに弱ることになる。雨の逃げ道・・雨の道が消えるのだ。その結果は明々白々(めいめいはくはく)で、側溝(そっこう)やマンホールなどの至るところから水が噴き出し、あたり一面が水(みずびた)しのような状況を醸(かも)し出す。これは、とある男、牧川が雨水から直接、聞いた、嘘(うそ)のようで本当の会話だ。
『いやぁ~弱りましたよ。多くの方が並んでおられるんですから…』
『ははは…今、来られた貴方(あなた)なんか、まだいい方ですよ。私なんか30分待ちです』
『なんだっ! そうでしたか。いつ頃、この道は復旧するんでしょう?』
『さあ? そんなこと、私に訊(き)かれても…』
逃げ場を求めて先に並んでいた雨水は、すぐ後ろに並んだ雨水へ愚痴るように小声で言った。後ろに並んだ雨水は、思わず天を見上げた。
『しまった! こんなことなら落ちてくるんじゃなかった。もう少し、雲の上で寝てりゃ、こんなことには…』
先に並んでいた雨水と同じように、後ろに並んだ雨水も愚痴った。
『ははは…おっしゃるとおりです』
雨水 同士(どおし)の会話を立って聞く牧川は、私ももう少し寝てりゃな…と思った。
「ははは…こんな渋滞(じゅうたい)は困ります。文明進歩もこういうのは、良し悪(あ)しですな」
牧川は思わず小声で呟(つぶや)いた。その声が語り合う雨水に聞こえたかどうかまでは定かではない。ただ、牧川が呟いたあと、途端に雨は止(や)んだ。軒(のき)で雨宿(あまやど)りしていた牧川は歩いて去り、いつの間にか溢れ出ていた雨水は消えた。雨の道は復旧した。
完
人は誰しも夢見心地(ゆめみごこち)に憧(あこが)れる。汗水(あせみず)を流して齷齪(あくせく)働いていようといなかろうと、誰しもがそう思うものだ。人間の欲とは凄(すさ)まじいもので、飽(あ)きることを知らない。誰の目にも、アノ方はさぞユートピアで夢見心地なんだろうな…と思えても、アノ方にすれば決してそうではなく、より以上のユートピアがあり、ソコの夢見心地を味わいたい…と思っているものだ。ここに登場する橋場(はしば)も、そんな中の一人だった。
風が流れていた。夏が去り、少し寂しげな秋風が流れ始める頃、別荘で一人、橋場は深い溜息(ためいき)を吐(つ)いていた。避暑目的で、あれだけ訪れていた来訪者も、夏の終わりの鰯雲が時おり現れる頃になると、バッタリと姿を消した。一人残された橋場は大サッシのガラス戸を開け、浜から流れる潮風を感じた。
「毎度! 三河屋ですっ! 注文の品、お届けにっ!」
勢いのいい声が垣伝いに聞こえた。橋場にすれば、久しぶりに聞く人の声である。橋場は人に戻(もど)った気分を感じた。いや、それは取り戻した・・と言った方が正しいような気分だった。
「ああ、ごくろうさん! 開いてるから。よかったら、上がってよ…」
「いや、急いでますんで、どうもっ! また、ご贔屓(ひいき)にっ!!」
玄関ドアを閉める音がした。
橋場は努力の挙句(あげく)、成金と今の地位を築いた。そして、憧れていた夢見心地を実現させようと、この地に別荘を建てさせたのである。突貫工事だった。完成のあと、多くの祝い客が訪れ、しばらくは来訪者があとを絶(た)たなかった。その数は次第に減りはしたが、それでも夏が近づけば、ふたたび多くの来訪者で活気づいたから、橋場はそれほど気に留(と)めなかった。が、しかしである。夏が去り、少し寂しげな秋風が流れ始める頃になると、別荘で一人、橋場は深い溜息(ためいき)を吐(つ)いていた。夢見心地は、もはやどこにもなかった。夢見心地は憧れていた間が夢見心地だったのかもしれん…と、橋場は、また深い溜息を一つ吐いた。そのとき、電話音がした。長い間、授からなかった我が子が生まれた朗報だった。
完