今回のシリーズは、伊達政宗についてお伝えします。
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家康が、正式に諸大名を二条城で引見(いんけん)したのは十日になっている。そして、将軍秀忠と二人きりで密談したのが十一日。十二日には、将軍の命によって高力忠房、板倉重宗らが、大坂の残党狩りを始めていた。
政宗の眼に、家康が衝撃から立ち直った…と、見えたのは、将軍秀忠と会見した時からだった。その前の家康はどこかに拭(ぬぐ)いきれない迷いを見せて、
「これが、あの家康であったろうか?」
二条城に駆けつけた藤堂高虎や、鍋島勝重にさえ首を傾げさせたほどであった。
そのため、一部にはあらぬ噂も流れていった。
「家康は戦死なされたぞ。生き残ったのは家康ではない。駿府から連れて来た影武者らしいぞ」
むろん、それらの噂も間もなく消えて、十三日に来謁(らいえつ)した毛利輝元の子の秀就、中川久盛、寺沢広高、それに二条城へ祗候(しこう:貴人のそば近くに居て仕えること)した移しい僧(そう)衆(しゅう)らを引見した時には、再び以前の家康に戻っていた。
こうして十五日には公家衆や門跡に会い、そのあと城内で天台宗の論義を聴いた後、細川忠興の子、忠利に会った頃には、もはや平素の巨厳に見える家康だった。
その間、政宗はほとんど側近に詰め続け、
(家康に、伊達家を滅ぼす気はなかった…)
それをはっきりと確かめ得て、政宗は、眼も心も改めて洗われる想いであった。
世俗的に言えば、「英雄、英雄を知る」とでも言うのであろうか。家康も政宗を認めていたし、政宗もまた家康には敵しかねると、きわめて自然にわが叛骨(はんこつ)を捨てざるを得ない心境になりつつあった。
その心境になってみて初めて、家康の、秀吉を立てて来なければならなかった意味もわかった。
(天下というものは、奪ろうとして奪れるほど、安易なものではなかった……)
才略や器量を越えたところに、一つの運命が巨大な根を深々と張りめぐらして活きている。この根をそのまま「徳の根」と呼んでもよい。
永い間に無言で積まれた代々の徳の根が、子孫の繁栄に関わりを持っている。その根まわしの深さと大きさの不足を言わず、天下だけを狙ってみても、それは一つの悪夢に過ぎない。
その意味では、信長の夢にも、秀吉の夢にも、まだまだ足りないものがあった。
いや、政宗にしても同じであろう。ここで家康を倒してゆかねばならないほど、はっきりとした理由がない。理由のないところへ柄(つか)をすげて、叛乱(はんらん)してみたところで、それは天下を制することにはなりようがなかった。
(そうだ! 叛乱は、どこまで行っても叛乱に過ぎない。天下とはそのように甘いものではなかった…)
政宗が、もしも天下を求めるのならば、全く無私の立場に戻って、民衆のために黙々と徳を積むよりほかにない。そして、それが子孫に及び、大樹をなしたところで、初めて運命は彼の前に天下をひろげて見せるだろう。
(今、天下は、家康の手にあるべくしてあったのだ……)
さすがに、政宗はそれを悟った。
悟ってみると、またしても心にかかるのは、不思議な立場におかれた上総介忠輝(松平忠輝)のことであった。
(家康は、どのようにこれを処理しょうと思っているのか?)
家康が、まっ先に戦功を褒(ほ)めたのは、越前の忠直と紀州の浅野長晟であった。これはいずれも衆目の認めるもので、誰にも異存のないところだ。
しかし、忠直を褒賞(ほうしょう)すれば、当然忠輝を責めねばならない。同じ子供のまだ幼い義直(尾張)にも頼宣(後の紀伊)にも、それぞれ付された家老の働きで手柄があった。しかし、年長の忠輝にはそれがない。
(誰かが減封されなければ納まらないはずの今度の戦……)
と言って、迂闊(うかつ)にこれは政宗にも問い質(ただ)せることではなかった。政宗自身は、越前や浅野に続く大きな手柄を立てている。しかし、何の手柄もなかった忠輝は、伊達政宗の助言下におかれてあったのだ……
(『歴史小説浪漫』作家・童門冬二より抜粋)
---owari---
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