今回のシリーズは、伊達政宗についてお伝えします。
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「そうであろう。お身自身が、ある時期には忠輝(家康の六男、妻は政宗の娘・五郎八姫)であったからの。才能も、実行力も衆にすぐれていた。天才とでも言おうかの……そのためお身は、父御を畠山に殺させる破目になった」
政宗はギョッとなって、思わずいずまいを正し、呼吸をつめた。
「舎弟(しゃてい:弟分)を斬らねばならなくなったのも、母御が最上家へ遁(に)げだしたのも、何度も一揆で人を斬らねばならなくなったのも、つまりは、お身という若者ができすぎていたせいじゃ」
「………」
「わかるであろう。義経が兄頼朝にうとんじられて悲劇の人になったのも、織田どのが、母や弟ばかりか、家来まで敵にまわして、若死しなければならなかったのも、みなそのすぐれた才能と実力のためじゃ。つまり才能も実力も、そのまま人間の仕合せや安泰を保証はせぬということじゃ。何というても若者には足りないものが一つある。その一つを見落すと、結果は不幸な悲劇以外になくなるものじゃ」
「大御所さま! そ、その足りない一つ……とは、何でござりましょう!?いや、わが身のために…ゼヒとも!これは、伺いおきとう存じまする」
政宗は、はげしく問いかけて赤くなった。一度に自分が若返りすぎた気がして恥ずかしかったのだ。
家康はこれも幾分高ぶって来たようであった。大きな皺(しわ)にかこまれた豊かな眼に血の色がうごいている。
「これが人生幸福の極意での。なかなか、言葉ではわからぬことよ」
「それは殺生な! 才能も実力も不幸に通ずる、知恵も才覚も破滅のタネ、とあっては、若者どもは生きる勇気を失いましょう」
家康は、それには直接答えなかった。
「慈悲の徳……それが足りぬ。知恵も才覚もみな我執(がしゅう)でのう。周囲の者を踏みつぶしても我意を通そうと馬に鞭(むち)打つ。他人を蹄(ひづめ)にかけすぎる」
「フーム」
「一寸の虫にも五分の魂……というよりも、生きとし生けるものはみな神仏の生み給うた大切ないのちでのう。わが身自身もその枝葉なのじゃよ。その枝葉を、わが身で伐(き)り払いすぎるゆえ、神仏はお怒りなさる。神仏を怒らせてはわが身もふくめて枯れるは道理じゃ。いや、五分の魂の怨念(おんねん)が積もり積もって行く手をさえぎる。これでは仕合せになりようがあるまいが」
そこまで言って、家康はふと想い出したように、
「関ケ原のおりにの、われらは清洲の城で、実は中風を発したのじゃ」
「な、なんと言われまする。清洲の城といえば、岐阜から赤坂まで出る前々日に!?」
「そうじゃ。忘れもせぬ。あれは九月十一日の夜食のおりであった。藤堂高虎と会い、長島城にある福島の伜(せがれ)正頼に、しっかりせよと手紙を持たせてやっての、翌早朝、わが身も岐阜へ向うつもりで、寝酒を喰べた。高虎と二人での。すると左手に持っていた酒杯がコトリと手から畳へ落ちたわ……」
「なるほど」
「何気なくそれを拾おうとしてハッとなった。手が動かぬ。肘のあたりがしびれている。これは高虎に見せてはならぬと思い、風邪のようじゃ。追ってよいと、言おうとすると、今度は舌が巧くまわらぬのじゃ」
「そ、それで、何となされましたけ‥」
「動く右手で、高虎を通らせた。覚悟をしたの。ここまでやって来て、体の動かぬ病いを発した……この家康のすることは神仏の御意に召さぬということらしいと。そこで用意の薬を飲んでの、床に入って考えた。死に方じゃ。神仏に見限られたとなったら、死に方だけは御意に添うよう、とっくりとわが身で思案をせねばならぬ」
(『歴史小説浪漫』作家・童門冬二より抜粋)
---owari---
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