今回のシリーズは、伊達政宗についてお伝えします。
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そのため、どっちへ転んでも「わが家は存続」という苦肉の策をめぐらし、父子兄弟が、双方へ別れて戦ったものも少なくない。
(石田方) (徳川方)
真田昌幸(父) 真田信之(子、兄)
幸村(子、弟)
蜂須賀家政(父) 蜂須賀豊雄(子)
生駒正俊(子) 生駒一正(父)
九鬼嘉隆(父) 九鬼守隆(子)
前田利政(弟) 前田利長(兄)
京極高次(兄) 京極高知(弟)
小出吉政(兄) 小出吉辰(弟)
こうした厄介な戦の中で、始めから迷わずに、勝敗を見定め、はっきりと賭ける方へ賭けて動じなかったのが伊達政宗であったと言える。
政宗は誰にも無条件で惚れたり感心したりする男ではない。と同時に、誰にもそう易々とは欺(だま)されない。
人間嫌いとか、人間を信じないとか言うのではなくて、人間の限界も正体も、冷酷なほどによく知り、よく見抜いた、むしろ人間信者と言ってもよい。
その政宗が、関白秀次事件の解決後、わが子兵五郎秀宗を人質に差し出す約束をしたあとで、初めて石田三成の執拗な敵意の根源を探りあてたのだ。
おそらく三成とて最初から政宗を憎んでいたわけではあるまい。
秀才と秀才の妬(ねた)みから来る悪戯(わるふざけ)ごころが多分にあったに違いない。ところが、そのつど、これを政宗にハネ返された。
そうなると、三成の警戒は二重三重にならざるを得なくなる。
(これは容易ならぬ曲者だぞ)
この曲者と家康に手を組まれては、彼の出てゆく世界はない。秀吉までが次第に政宗に惚れ込みそうな気配なのだ。
こうして三成は策戦を一変した。手の内をきれいに見せて政宗に接近し、これを抱き込もうと計って来た。が、政宗が果してその誘いに乗るかどうか…?
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*政宗は秀吉の死後、家康に接近し、東軍として会津攻めに従軍。関ヶ原の戦いで、東軍を勝利に導きました。
(『歴史小説浪漫』作家・童門冬二より抜粋)
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