⑥今回は「作家・津本陽さん」によるシリーズで、織田信長についてお伝えします。
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信長は東美濃攻略に、七分通りの成功を納めたのち、しばらく静観の方針をとった。犬山城から織田信清(信長の従兄弟)を追いはらった成果は、まず尾張領内の治安にあらわれた。
以前は夜間はもとより白昼にも追い剥(は)ぎ強盗が横行する有様であったが、信長の威令(いれい:権威のある命令)が尾張一国へゆきわたると、行商人が道端で荷を枕に昼寝する姿が見られるほどになった。
美濃から細作(さいさく:忍びの者)の潜入する道がふさがれ、領内で騒擾(そうじょう:集団で騒ぎを起こし、社会の秩序を乱すこと)をおこす者は、容赦(ようしゃ)なく斬刑(ざんけい)に処されたからである。
信長は当時から、一銭を盗んだ者を斬る、「一銭斬り」の刑罰を実行していた。盗む者は斬る、犯す者は斬るという、簡明な軍法を実施することにより、犯罪者はまったく影を消した。
ながらくの合戦つづきで、軍役についていた百姓衆も、野良仕事をもっぱらとする日送りができるようになった。
信長は領内の往還(おうかん:道を行き来すること)、在所道の改作普請を地侍たちに命じてすすめる。いっぼう新田を開起する者には、両三年のあいだ反銭(租税)の取りたてを免除すると、布令を発した。
つぎの飛躍にそなえ、領民にカをたくわえさせておかねばならないと、信長は考えていた。
(『下天は夢か 1~4』作家・津本陽より抜粋)
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