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江戸の大火が欧州より百年も早く“レストラン”を作った(前編)

2016年09月07日 | 日本

江戸は世界的に見て最も早く外食文化が発達した都市だった。

フランスにレストランが出現したのは1765年です。フランス大革命の影響で職を失った王宮のコックが、町に店を開いたのが始まりでした。イギリスではさらに60年遅れて1827年が最初だったという。

 

それに対し、江戸の料理店の登場は、ヨーロッパよりも100年以上早い、1657年(明暦3年)のことで、きっかけは、その年の1月18日から19日にかけて起きた明暦の大火。

 

江戸の三分の二が焼失した明暦の大火の復旧工事には全国各地から大勢の職人、人足が動員された。その復旧作業員を相手に商売をする「煮売屋」と呼ばれる料理店がたくさん現われたのが、江戸の外食文化の始まりです。

 

喜多村信節が著した『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)』には、「明暦大火の後、浅草金竜山門前の茶店に、始めて茶飯、豆腐汁、煮しめ豆などをととのえて奈良茶と名付けて出せしを、江戸中はしばしこれを食いに行かんとて、ことのほか珍しき事に興じたり」と書かれた。

 

以来、こうした料理店は、江戸の町々に出現し、庶民の舌を楽しませることになったのです。

 

江戸で外食文化が定着して、発達して行ったのには、江戸が男社会であったことが一因に挙げられる。1721年当時、男女比率は男100に対し、女は55.1だった。

 

江戸は単身赴任の大名家臣や、一旗揚げようと地方からやって来た男たち、出稼ぎも多かった。下層階級になるほど独身者が多く、彼らが、外食店を利用したのです。また、江戸は火事の多い町だったことも、外食文化発達の大きな要因になったのです。

 

江戸時代の約270年の間に、「江戸大火」と呼ばれる火事だけでも100件近くあったという。およそ2~3年に一度は大火に見舞われていたことになる。市中ではいつもどこかで復旧工事が行われていたのです。

 

そのため、職人は仕事に困らないだけでなく、蓄えを持たなくても困らなかった。逆にいえば、蓄えがあっても火事で燃えてしまえばそれまでで、基本的に蓄えを残そうという発想が希薄だったのです。

 

「宵越しの金は持たない」「金に糸目はつけない」江戸っ子気質はこんなところから生まれたともいえるのでしょう。

 

江戸の町人たちは、体を元手に食べることを楽しみにしていました。そんなところから、借金してまでも、初物を食べたり、食道楽に走る食文化が育まれていったのです。

世界に先駆けて登場した江戸の外食文化の背景にはこんな事情があったのです。

 

---owari---

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