㉔今回のシリーズは、石田三成についてお伝えします。
三成は巨大な豊臣政権の実務を一手に担う、才気あふれる知的な武将です。
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戦勢は、有利であった。
天満山の山麓では、字書多隊が余裕をもって福島隊以下をあしらっているし、この石田隊の前面の敵は何度か撃退きれている。
(しかし、南宮山も松尾山もまだうごかぬ)
いま山を駈けおりれば、味方の勝利はだれの目にも確実ではないか。
三成は絶叫したくなり、それらの陣にむかって何度めかの狼煙をあげさせた。
このころ、石田隊の広くもない前面の野は、敵の人馬で満ちはじめている。
黒田長政、細川忠興、竹中重門、加藤嘉明、田中書政、戸川達安の諸隊だけでなく、戦場の中央部にいた佐久間安政、織田有楽斎、古田重勝、稲葉貞通、一柳直盛といった小部隊も、
-おなじかかるならば、治部少の陣に。
という気持もあって、ひしめきながら駈けあつまってきた。
が、陣前の野がせまいために十分に働けず、また、柵内からの石田隊の射撃が激しいために近づくことができない。
この戦場全般のふしぎさは、西軍はその兵力の三分の二が動かず、三分の一が死力をつくしてはたらいていることであった。その点、東軍は全力をあげて各戦闘場で馳駆(ちく)している。実働実数でいえば西軍はほば四倍の敵に立ちむかっていた。しかも戦況はいよいよ西軍に有利なのである。
(勝つ。-)
とは、三成はおもったが、しかしそれを決定的にするには、三成が足掻(あが)く思いでこがれているように、たった一つの条件が必要だった。不戦の味方が、その三割でもこの戦場に参加してくれることであった。
「島津隊は、なにをしている」
三成は、悲鳴をあげるようにいった。それさえ、動いていなかった。島津隊は石田本陣の右翼、北国街道ぞいに布陣し、しかも一発の鉄砲も撃たず、族旗をしずめて戦況を傍観している。
「助左衛門、いま一度島津陣へゆき、出勢を催促せよ」
と、三成は八十島助左衝門という物頭に命じた。すでに先刻、三成は同人を走らせて督促はしてある。
が、島津豊久は、
「諾」
と、うなずいたきり、依然として兵を動かしていないのである。
八十島は、二度目の督促便として駈けだした。この男は三成の老臣八十島助左衛門入道という者の子で、平素弁口がすぐれ、他家への使いをよくする。しかし戦場の役に立つ男ではない。
この男が、背に母衣をかけて駈けた。
島津惟新入道、同豊久の心境は、この戦場のいかなる将の心境ともちがったものであった。むろん他の不戦諸将とはちがい、東軍へ寝返る気持はさらにない。
戦闘は辞せぬつもりではいる。しかし複雑なことに、三成の指揮下で戦う気持をなくしきっていた。
「敵がわが島津の陣前に立ちむかってくれば撃退はする。しかし治部少のためには戦わぬ。もはやわれらは西軍の一環ではない」
と、豊久はその配下にも言っている。惟新も豊久も、三成に対して感情をこじらせていた。理由は山ほどある。さきに大垣城外の戦線を三成が撤収したとき、前線の島津隊を置きざりにしたこと、ついで大垣城の最後の軍議のとき、島津豊久の夜襲案を一譲(いちじょう)もなく蹴ったこと、などであり、さらにいえば、西軍のなかでもっとも武略すぐれた島津惟新を、三成はさほど優遇していない、ことなどであった。
(『歴史小説浪漫』作家・童門冬二より抜粋)
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