『視点を変える⑧』
(「自分にとっての幸福」という視点)――誰もがうらやむ道が良いとは限らない
世の中には、多くの人から、うらやましがられるような仕事をしているエリートがいます。しかし、そのような人たちには悩みがないかといえば、そんなことはありません。挫折と無縁の道を歩んでいるように見えたとしても、心のなかを見てみれば、彼らにも彼らなりの挫折感があって苦しんでいるのです。
🔸医者になるまでの挫折
ここで、エリートの例として、「医者」を目指す人の人生をたどってみたいと思います。
小学生や中学生という子供時代に、「お医者さんになりたい」という気持ちを持った人がいるとします。医者になるには医学部に入らなければいけません。しかし、どの大学も医学部の定員は百人ぐらいしかないので、入るのは難しいのです。そのため、大学の医学部に入る段階で不合格になる人がたくさん出てきます。ここで第一段階の挫折が生まれます。まず、「医学部に入れない」という挫折があるのです。
医学部に入ることができた人でも、国家試験に受からなければ医師にはなれません。この試験も、全員が合格するわけではありません。残念ながら、落ちる人は出てきます。毎年、医師の国家試験の合格者は受験生の八割から九割程度です。なかには、何度受けても合格できず、医学部に入っても医者になれない人もいるのです。
医学部に入れなかった人も残念ですが、「医学部に入れたが、医者になれなかった」という人も残念な思いをします。これも挫折です。
その次には、医学部を卒業し、研修医として働いている段階で、自分には医師として適性のないことが判明する人も出てきます。かわいそうなことではありますが、「学力が高かったから医学部に入ったが、実は、自分は医者には向いていないらしい」ということが分かる人もいるのです。
医者にとって必要なのは、物理や数学、英語などの受験科目よりも、むしろ“人間関係学”でしょう。医者は人間を相手にしなければいけないので、「勉強は好きだが、人間は嫌いだ」という人が医者になると、かなり悲惨です。「医学部の受験科目が非常に得意だった」という人のなかには、人間嫌いの人もけっこういるので、この段階でも挫折が来るのです。
🔸医者になってからの挫折
実際に医師として働く段階では、まず、「大学の病院に残りたい」と希望する人の場合、残れる人とそうでない人が出てきます。
また、開業医となる場合にも、高収入を得て、うまくいく人もいれば、開業後、借金を返せずに苦しむ医者もいます。借金を返せず、赤字で苦しんでいると、治療において、「こんなことをしてはいけない」と思いながらも、「あなたは重病です」と言って、薬を余分に飲ませたり、入院を長引かせたりしてしまい、良心の呵責を感じるような人も、当然、出てくるのです。
大学の医局に残った人にも、さまざまなことが起きてきます。自分の希望どおり大学に残ることができた人は幸福で、残れなかった人は不幸であるように見えますが、その後も道はいろいろと分かれていくのです。
大学の医局は上下関係が厳しい封建的な世界なので、この“封建制”に耐えかねる人はたくさんいます。だいたい、勉強ができすぎた人は、人間関係があまり得意ではありません。むしろ、人間関係が下手な人のほうが多く、そういう人が、この封建的な閉鎖体制のなかで、窒息しそうになって苦しむのです。
そこでは情実による人事もあって、教授に取り入ることをしなかった人が左遷されることもあります。
また、大学の医局で、「本当のこと」を言ったために、残念ながら左遷されてしまうこともあります。手術ミスなどがあって、全員に箝口令(かんこうれい)が敷かれたときに、「外部に漏らすな」と言われていても、正直に話す人がいます。とても良心的であるために、死んだ人の家族にだけは、「実は、助かるはずだったのに、手術ミスをしました」と、本当のことを言うわけです。
それによって、手術ミスが発覚し、警察が調べに来ると、病院のなかでは、「あいつが漏らした」と言われ、左遷されてしまうのです。正しい行いであっても、この世においては一時的に挫折するような場合もあるわけです。
さらに、国立大学に入り、なかに残って優秀な教授になったにもかかわらず、「製薬会社から賄賂(わいろ)をもらった」という理由で失脚する人もいます。
これは、医者としては優秀だったけれども、法律の勉強が足りなかったために起きた悲劇です。こういう教授は、実は、「どのような場合が賄賂に当たるか」ということもよく分からないまま、金品を受け取ってしまうのです。
そのほかにも、医学部の資金を流用して失敗するような人がいます。
このように、一般に人々からエリートだと見られている医者を取ってみても、さまざまな挫折があり、次から次へと脱落していくわけです。
🔸医者として上り詰めてからの挫折
また、医者の仕事を全うして教授になったとしても、あとから後悔する例もあります。
大学の医学部で「人間の心は脳の作用なのだ。脳がすべてなのだ」というような「唯物論」を説き、名誉教授になった、ある有名な解剖学者がいますが、その教授が教えた医学生のなかから、邪教に走って大変な社会問題を起こす人が出てしまったこともあります。これも一つの挫折と言えるかもしれません。
自分の教え子の医者のなかに、そういう人が出ると、教授としては、「なぜ、あんな邪教に入ったのだろう」と疑問に思い、悩むことでしょう。
その教え子は、邪教で霊現象に触れ、「本当は、こんな世界があったのか、母校で教授が教えていた唯物論は嘘だったのだ」と驚き、その邪教に出家者として入って、その後、毒ガスをつくる集団の宣伝の一翼をにないました。
しかし、本当は、霊現象のなかには良いものも悪いものもあり、悪霊による現象も多いのです。自分が教えた唯物論が間違っていたため、教え子が邪教に走ったわけですが、その教授は、それをまだ“悟って”はいません。
その教授は、「医者は、神秘の力や信仰心、宗教を否定するのが当然である」と思っているのかもしれませんが、それは甘いのです。有名な医者であっても、神秘の力や信仰の力を認める人はいます。
例えば、ノーベル生理学・医学賞の受賞者であるアレクシス・カレル(1873~1944))は、不思議な治癒力で知られる、フランスの「ルルドの泉」を訪れたとき、不治の病の患者が回復するという奇跡を目撃し、神秘の力を認めています。(氏の著作『ルルドへの旅・祈り』〔春秋社〕、『人間 この未知なるもの』『人生の考察』〔三笠書房ほか〕など参照。)
したがって、医学と宗教は、まったく両立しないわけではないのです。
宗教を否定する医者は、こうした霊的な知識や経験が不足している世界で生きてきたことが多いのです。
このように、医者として上り詰め、成功したように見えても、あとから挫折がやってくる人もいます。
---owari---
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