⑦今回は「作家・津本陽さん」によるシリーズで、豊臣秀吉についてお伝えします。
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武器は小荷駄(こにだ)で送るか、現地調達する。そして、身軽な兵隊を通常の軍団移動の二倍から三倍のスピードで動かしうる能力は、まさに敵の意表をつくものであつた。急速な移動のさいには、侍たちは甲胃をつけず、半裸で戦場へ馬をむける。
平生(へいぜい)から養っている″兜着(かぶとぎ)″とよばれる強壮な体躯の足軽たちに彼らの甲冑(かっちゅう)を着せて、あとにつづかせるのである。日ごろ、ただ飯を食わせて遊ばせておくのだが、いざという時に、″兜着"として役に立たせた。
着るのは、担ぐよりも体が楽なためであった。戦場に到着すると、主人は″兜着″から甲冑を受けとって武装し、十分に余裕のある体力で戦闘にのぞむことができる。沿道には、焼きむすび、水、草鞋(わらじ)などがそろえられ、落伍者を収容する陣小屋も設けられ、夜は篝(かがり)火(び)が昼間のように焚(た)かれた。
六月六日に高松城の陣から撤退した秀吉の軍勢は、夜を日につぐ強行軍で姫路を目指し、八日には姫路城に帰陣するという猛スピードの行軍であった。秀吉は、驚異的なペースで疲れはてて備中から到着した軍団の将兵を鼓舞するため、姫路城に蓄えていた金銀、米穀のすべてを大盤ぶるまいし、沿道の民百姓にも金銀をばらまいて、道中の安全と物資の補給を確保した。
他の武将であれば、小出しにあたえるであろう金や穀物を、家来や民百姓たちの意表をつくほどに多くあたえれば、勝利ののちは、どれはどの恩賞にあずかれようかと、ふるいたつものであるのを、秀吉は知っていた。
秀吉が備中戦線からの撤収に成功して姫路に帰着したことを知ると、中川瀬兵衛、高山右近らの諸勢力が秀吉に合流した。彼らにも、あらかじめ信長生存のデマを流しておいたことも効果があった。急激な政変が起こったとぎは、真相がつかみにくいので、虚報によって、織田家の諸将や畿内の諸大名に光秀方へ走る決心をさせまいとした秀吉の戦略は功を奏したのである。
この六月、中川、高山勢を加えた秀吉は、山崎の合戦で光秀の軍勢を敗北させた。
両者の勝負は、戦う以前からすでに決まっていた。光秀に味方する武将は少なく、多数の武将が討伐の秀吉軍に加わったからである。
″中国大返し″や虚報流しなどによる戦術が、勝利をもたらした。いわゆる、″光秀の三日天下″は潰(つい)えたのである。山崎の合戦で、織田方の諸将中における秀吉の地位は飛躍的に向上した。
(小説『秀吉私記』作家・津本陽より抜粋)
---owari---
「材料物理数学再武装」や「アダムスミス経済学の国富論」は存じ上げず、よく分かりませんが、ご訪問ありがとうございました。
まあ簡単に言うと
1+1=2 だけではなく
1+1=3 という世界を
数理的に表現しようとしたもののように受け止められる。
プロテリアルは日立金属株式会社から社名変更された会社だったのですね。
コメント有難うございました。
出雲街道の旅人さんのコメントがちんぷんかんぷんだったのですが、分かる人には分かるのですね。ご教示有難うございました。
ご訪問有難うございました。
“中国大返し”では姫路城が出てきましたが、そこで軍師官兵衛を思い出されるとは、さすがですね。黒田官兵衛は姫路城内で生まれたただ一人の城主と言われております。
「大河ドラマ軍師官兵衛」もよかったですね。軍師官兵衛ともう一人の軍師半兵衛(竹中)の働きにより、秀吉は天下を取ることが出来たと言われていますね。