家康が江戸に赴任する前の江戸城内は、旧小田原北条氏の支城として遠山氏が管理していた。しかし、北条氏が秀吉に降伏後、家康に引き渡された。建物はすべて板葺き屋根で、台所は茅葺き屋根だった。玄関には、船板が二段に重ねて渡してあった。
建物の内部はすべて土間で、床はない。しかも建物はすっかり壊れ、合戦のときに屋根に土を塗り付けたので、その重さで尾根が傾いていた。内部の畳や敷物も湿気で腐り切っていた。
家康の検分には、本多正信が供をした。あまりのひどさに正信が、思わず、「これはひどすぎます。せめて玄関の船板だけでも取り除き、きちんと整備いたしましょう」といった。
家康は笑った。「おまえらしくないことをいうな。城などどうでもいい。町を先につくろう」といった。正信は恥じた。「おれとしたことが、つい迂闊(うかつ)なことを口走ってしまった」と思ったからである。
家康は正信を振り返って告げた。「弥八郎、江戸の町づくりと家臣の知行割りの案をつくれ」と命じた。思慮深い家康は、いきなり部下に、「この仕事をやれ」とは決していわなかった。まず案をつくらせて吟味する。その案がよければ、今度は、「おまえが工事の指揮を執れ」と命ずる。
段階方式が家康の得意な部下の管理法である。しかし正信はこの瞬間に、天に舞い上がるような喜びを感じた。それは明らかに家康が、“江戸の町づくりと、家臣の知行割りは、おまえの存念に任せよう”といってくれた気がしたからである。
同時にまた、家康が、「城などどうでもいい」といったのは、当面は秀吉の命令によって、おそらく奥羽方面へ参陣を命ぜられるに違いないと思っていたからだ。それには、また家臣団を率いて出陣していかなければならない。そんなときに、留守にする城を整備しても意味はない。
まず家臣をどのように配置するか、同時にまた町を発展させるために、当然諸国から商人を招いたり、職人を招いたりしなければならない。その家臣の配置と町づくりの案を、おまえが立ててみろということだ。
正信が持ち前の勘の艮さで気づいたのは、“殿は、おれを江戸に残すおつもりだ”ということである。家康のいまの言葉は、「おれはどうせ関白殿下の命によって東北へいかなければならない。戻ってくるまでにおれが安心してこの地に住めるような第一段階の準備をしておけ」ということである。正信はそれが嬉しかったのだ。
---owari---
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます