家康は小さな時から他人の家の飯を食ってきたから、人の心の動きをつぶさに見続けてきた。
かれの人生観は、その底においてかなり冷ややかである。だからこそ、かれは慎重と果敢の絶妙なバランスを保つことができたのだ。
そして、そのバランスを保つ柱や台になったのが、「忍耐心」である。しかしかれの忍耐心は単なる、「我慢」ではない。はっきりいえばその忍耐心を支えていたのは、「世論」だった。
徳川家康ほど戦国時代の武将で、世間の評判を気にした人物はいない。
かれが天下人への道を歩いてゆく過程を見ていると、必ず世論によって決断を下している。つまり、世論が自分を支えてくれるまでは、静かに待つ。慎重に待つ。
そして、世論が自分の方向に風向きが変わったと見れば、たちまち果断な行動に出てゆく。その間、この慎重と果敢の間にあって、ヤジロベエのようにその振子を支えるのが、忍耐心であった。
そしてその世論を形成するためには、時にはかれは常軌を逸した行動にも出る。つまり他から見ると、「あの行動は、少し慎重を欠くのではないか。果敢といっても、あれでは猪突だ」といわれるようなことも行う。
例えば、三方ケ原の合戦だ。都をめざす武田信玄の大軍が、徳川家康がその頃拠点としていた浜松城のはるか北方を通過しようとした。これを知った家康は、攻撃しようとした。部下たちは反対した。また、不時の備えとして織田信長が派遣した応援軍も反対した。
信長自身も、「いま、家康が打って出れば必ず粉砕される。そうなると、家康が敗れた後おれは、上方の反信長軍と信玄の挟み撃ちになる」と警戒していた。家康はそんなことは百も承知だ。
しかし、この時は打って出た。案の定、かれは大敗してしまった。この時の情けない表情の肖像画が現在も残っている。しかし、敗れても家康は満足だった。というのは、この時から世論が沸いた。それは、「律義な徳川殿」という評判であった。
律義な徳川殿というのは、「たとえ敗れても、徳川殿は織田信長殿との同盟を守り抜いた。負けると分かっている戦いにも勇敢に打って出ていった。見事だ」という賞賛の声である。家康はほくそ笑んだが、信長は苦笑した。「タヌキめ、やりおるわ」とつぶやいたのである。
---owari---
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