⑨今回のシリーズ、『徳川家康』は年明けにまた、お伝えします。
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「上方で石田三成が旗をあげるであろう。このことはまちがいない」
家康は、一語々々、噛んでふくめるようにゆっくりといった。
「石田は大坂で西国大名を掻きあつめ、まずこの伏見城に攻めてくるであろう。人数は十万、あるいはそれ以上かと思われる」
伏見城は、陥ちるであろう。
家康にとって、捨て城といっていい。その捨て城の城将として、この鳥居彦右衝門を任命しようと家康はしている。
(律義者の彦右衝門以外の者には、この死城の城将はつとまらぬ)
と、家康はみていた。
奮戦のうえ玉砕すべき城である。もし利口者を城将にすれば巧妙に立ちまわって敵と妥協するか、降伏するかもしれない。
(そうすれば徳川家の威信は地に落ち、後日の政略にまで影響する)
彦右衛門ならば、負けるとわかりきった防戦を愚直に敢行し、死力をつくして戦い、三河武士の勇猛ぶりをぞんぶんに発揮して天下を戦慄(せんりつ)せしめてくれるであろう。この任は、彦右衝門しかない。
「残ってくれるか」
家康はさらに、彦右衛門の副将として、内藤家長、松平家忠、松平近正の三人を添える旨をいった。総勢およそ千八百人である。
「承知つかまつりました」
と、彦右衛門は、顔色も変えずにうなずき、しかしながら、といった。
「どうせ陥ちる城」
と彦右衛門は、大広間を見渡し、
「いま申された三人の助勢は無用でござりまする。かれらは会津陣にお連れなされませ。この城の寵域は彦右衝門ひとりで十分でござる」
例の頑固さではげしく言い張ったが、家康にも考えがある。どうせ死戦とはいえ、彦右衝門の手が一手では五百にも足らず、城はあっけなく陥(お)ちてしまい、これまた天下に徳川家の武威(ぶい)をうたがわれることになる。せめて何日かでも城をもたせるべきであろう。それには右の三人の助勢が必要なのである。
その旨を説くと、
「なるほど左様なお肚(はら)か」
と、彦右衛門はかるがるとうなずき、家康の説に賛同した。
〈ひとつ難がある)
この城は故秀吉の別荘ともいうべき道楽城で、鉛弾の貯蔵があまりない。
「彦右衡門」
家康は、思いきったことをいった。
「当城は太閤御存生のころから、天守閣にずいぶんと金銀を貯えられている。もし戦端がひらかれ、鉛弾が欠乏したとき、あの金銀を鋳つぶして弾として撃て」
「さてこそは」
と、彦右衛門は膝(ひざ)をうった。
「それがし御幼少のころからお側ちかくに仕え苦労をかさねてきた甲斐がござる。それほどの御大度(おんたいど:広くて大きい度量)ならば、上様は天下をおとりあそばすでござりましょう。伏見城の金銀など、弾として撃ちつくしても、後日天下をお取りあそばせばいかほどでも取り戻せまする」
夜に入って、家康はふたたび彦右衛門を奥座敷によび、酒をあたえ、さまざまの物語をした。彦右衛門はこころよく酔い、駿河流寓(りゅうぐう:放浪して異郷に住むこと)時代の話などをし、
「おもえば、ながい主従の御縁でござりましたが、これが今生で拝謁(はいえつ)できる最後になりましょう」
と、彦右衛門はさりげなくいって座をさがった。
やがて廊下を退がってゆく彦右衛門の足音が聞こえてきた。この老人は三方ケ原の合戦でびっこになったため、足音が異様に高い。その足音が遠ざかってやがて消えたとき、家康は急に顔を蔽(おお)って泣いた。
ちなみに筆者いう。
彦右衛門のような型の三河者のいるのが、家康の軍団の特色といっていい。
信長の軍団にも秀吉のそれにも、こういう気質の将士はいなかった。風土のちがいといっていい。
信長は、尾張衆を率いていた。尾張は交通が四方に発達し信長のころから商業がさかんなため、自然、土地の気風として投機的性格がつよい。才覚はすぐれていても、律義、愚直、朴強といった気風にとぼしい。
隣国ながら、三河は逆である。純粋の農業地帯で、流通経済のうまみをまったく知らない地帯といっていい。自然、信長の軍団の投機的華やかさにくらべ、家康の軍団には百姓のにおいがある。この気質からくる主従のつながりの古めかしいばかりの強靭(きょうじん)さが、いま天下の諸侯をして家康の軍団を怖れしめている最大のものであろう。
(小説『関ケ原・中』作家・司馬遼太郎より抜粋)
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伏見城の戦いは、慶長五年七月十八日(一六〇〇)から八月一日まで行われた関ヶ原の戦いの前哨戦。
開戦の経緯は、豊臣政権に対して反逆を企てたとして会津征伐のために、大老・徳川家康は慶長五年六月十八日に伏見を立ち東国へ向かった。その後、反家康の立場を明らかにした石田三成らはこれに対して伏見城を四万人で攻撃、千八百人で猛攻を防いでいたが、八月一日ついに落城、 鳥居彦右衝門は討死した。
後談であるが、家康は忠実な部下の死を悲しみ、嫡男・忠政を後に磐城平藩(いわきたいらはん:現・福島県いわき市)十万石を経て山形藩二十四万石の大名に昇格させている。
---owari---
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