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ルーズベルトは味方にすべき国を見誤った

2020年03月21日 | 日本
高山:たしかに、いまでは信じにくいことですが、中国人は日本の勝利を喜び、たとえば激戦地ムクデンでロシアの敗北が決定的になると「満州の首都、新京では中国人と日本人が手を取り合って中心街を練り歩き、花火がいつ果てるともなく夜空を飾った」と『ニューヨーク・タイムズ』紙が伝えたほどでした。

日本海海戦の一報が届くと「市民は歓呼してロシアの敗北のニュースを迎えた」と英『タイムズ』紙も上海電で報じている。

後に血の出るような日本への勧告(大正13年=1924年の神戸講演)を行うことになる孫逸宣(そんいつせん:孫文)も、このときは感激をもって日本の勝利を語っています。

「日本の登場で、これまで見下すだけだった白人たちのアジア諸国への対応が微妙に変わってきた。以前は、アジアの人々は白人諸国に後れをとり、絶対に追いつけないというのが一般的な考えだったが、日本はその白人から学び、そしてみごとに彼らに追いつき、追い越した。

われわれ中国人は、日本人にできることは自分たちもできることを知っている。つまり、白人がやれることがわれわれにもまた、できることを悟らせたのだ」

中国人は、日本人の勝利に共感していた。だからこそ、ルーズベルトがいかに狡猾(こうかつ)だったかということが逆に言えるのではないか。日本がポーツマス条約を受諾せざるを得なかった背景には、ルーズベルトの事実上の“恫喝(どうかつ)”があったと思うのです。

彼の斡旋によって、『ニューヨーク・タイムズ」紙が予想していた日本のシベリアの一部獲得は成らず、日本が得たのは同じアジアの国の領土でしかなかった。これでロシアの顔は立ったけれど、日本と中国の間には逆に不和と不信の芽だけが残った。

これは明らかに、のちの大東亜戦争の遠因となっている。私は、こうしたこのルーズベルトの分析をしないことには、日米の確執の原点が見えないような気がするんです。

日下:動機と結果の細かい因果関係を証明するのは難しいけれど、日露戦争の日本の勝利が、日米関係の大きなターニングポイントになったことはたしかです。そしてそれは日米関係だけにとどまらず、世界のバランス・オブ・パワーの構造を揺るがし、白人と有色人種の関係をも一変させる世界史の一大事だった。

高山さんが『産経新聞』の連載(「20世紀特派員」)に書かれていたとおり、日露戦争の勝利に沸いた中国からの留学生が続々と日本をめざし、東京に1万人を超える若い中国人学生があふれたとき、そうした日中の新しい光景は欧州を十分に驚かせるものだった。

ドイツのフォン・グレイル前駐北京大使はベルリンで会議を開いて、「中国の日本化が進むと欧州の権益が失われる」と主張し、「米、英と協力し、日本を押さえ込まねばならない」(『ニューヨークタイムズ』)と政府に警告を発し、アメリカの中にも日本の勝利で終わらせたことへの反発が議会や軍部に生まれ、この見方は第二次大戦後までくすぶり続けた。

高山:ルーズベルトが変な時期に仲裁したために「日本は世界の大国にのし上がり、米国の脅威となってやがては米国を巻き込む戦争を起こした。ロシアもボルシェビキ革命を生み、より巨大な敵に成長させてしまった」(E・ミラー『オレンジ計画』)というわけですね。戦わせておけば脅威のどちらかは消滅していたという言い分だけれど、アメリカは自らの責任や失敗をここでも棚上げしている。

ルーズベルトは結果的に、味方にすべき国、支援するべき国を見誤った。日露戦争の開戦時、日本が懇請した戦時債の購入を引き受けてくれなかったアメリカが、まさにホワイト・フリートを差し向けてきた1907年に、フランスなんかと一緒になって、中国支援の資金を出している。巨額の借款です。

つまり日本をアジアにおける敵と見なしたアメリカによる中国の抱え込みが始まったわけです。中国に肩入れすることでアジアから日本を排除する。日中を離反させ、中国大陸の利権をアメリカが自由にするという野心を隠すこともなくなった。

いま北京にある清華大学はミッションスクールですね。アメリカは第一次大戦後、これまた宣教師を立てどんどん中国に入っていって、ミッションスクールや教会、病院、大学をわんさとつくった。

日下:イギリスに代って中国を乗っ取るためですね(笑)。

高山:野心なくアジアと仲良くしたいんだったら、アメリカは日本にも同じように清華大学をつくればよかった。

日下:いや、それは明治政府が欧米文化を受け入れるべくやったんです。皇居のすぐ近くにカソリックに土地を与えて上智大学をつくらせたり、築地には英国国教会の立教大学(現在、本部は豊島区)をつくらせたり、アメリカにはメソジスト教会の青山学院大学をつくらせた。本来、こんなことをするのは独立国ではあり得ない(笑)。ところが日本は、「さぁ、どうぞ、どうぞ」と宗教的にも開放した。

なぜこんなことができたかといえば、たぶん、日本人は結局、キリスト教徒にならないとの自信があったからです。教会は、結婚式を挙げるだけ(笑)。新井白石がシドッチをこてんぱんにや0っつけた国ですからね。

---owari---
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