「日本人は、日本文化を外国人には理解できないものと、信じたいのではないか」
(「それはまさに、私にとっての喜びの瞬間だった」)
今年91歳(2013年)になる米国出身の日本文学研究家ドナルド・キーンさんは東日本大震災を契機に、日本国籍を取得し、日本定住を決意した。日本文化・文学に関する著作は、日本語で書かれたものだけですでに30点もある。そのキーンさんがこんな経験を記している。
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数日前、私は十年前だったら起こらなかったような経験をした。ある婦人が私に、最寄りの地下鉄の駅への行き方を尋ねたのである。それはまさに、私にとっての喜びの瞬間だった。
その婦人は私の外見におかまいなしに、私が駅の場所を知っていると判断したのだった。あるいは私がいかにも聡明そうな人間に見えて、私が日本人であるかどうか、よく考えなかったのかもしれない。蘭学者の長い闘いは、ついに実を結んだ。
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アメリカやヨーロッパの大都市を歩いていると、現地の人に道を聞かれるのはしょっちゅうだ。パリでフランス人にフランス語で道を聞かれたり、ミラノでイタリア人にイタリア語で道を聞かれたりする。現地人の雑踏の中なのに、なぜわざわざ東洋人の顔をした当方に聞くのだろうか、と不思議でならない。日本で外人に道を聞くことは、今でも私には考えられない。
それだけ、当方には「外人が日本の道を知っているはずがない」という確固たる迷信があるのだろう。アメリカ人として長年、日本文学を研究してきた「蘭学者」キーンさんは、まさにそんな迷信と戦ってきたのである。
(「刺し身は食べられますか?」)
「外国人には日本を理解できない」という迷信が、どれほど根強く日本人の間に浸透しているか、キーンさんはこんな体験を日本語で行った講演の中で紹介している。
ある地方で講演を依頼された時のこと、依頼者はキーンさんの秘書に「先生は魚を召し上がりますか?」と聞いてきた。魚は日本人だけの食べ物ではない。もちろん、食べられる。
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しかし、まだ外国人は魚のおいしさを理解できないだろうと思ってか、あるいは私を試そうとしてか、「刺し身は食べられますか?」と聞きます。「喜んで食べます」と言うと、日本人はだいたいがっかりします。「塩辛は?」「納豆は?」外国人が味を理解できそうもないような食べ物を次から次へと並べてみるんです。
「全部食べられる」という返事をすれば、がっかりされるので、あまりにも気の毒ですから私は「いやそれは食べられない」というと、日本人は軽い優越感を覚えるようです。
そういうふうに日本人は、日本文化を不可解なもの、外国人には理解できないものと、信じたいのではないかと思います。それはまことに残念だと思います。
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(「自分たちだけが特別だという確信」)
食べ物ばかりではない。学問の世界でも同じだ。
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日本での生活に一つ不満があるとしたら、それは私の本を読んだことのある人も含めて多くの日本人が、私が日本語が読めるはずがないと思っていることである。
日本語で講演した後に誰かに紹介されることがあるが、中には英語の名刺を持っていないことを詫び、あるいは名前に読みやすいように仮名が振っていないことを謝る人がある。東大の某教授などは、私が書いた『日本文学の歴史』を話題にして、「あなたが文学史で取り上げた作品は、翻訳で読んだのでしょうね」と言ったものである。
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「翻訳で読んだのでしょうね」と言われた時のキーンさんの憮然とした表情が思い浮かぶ。前節の講演では、多少の抗議も込めて、こう語っている。
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皆さんの中でも少なくとも三割ぐらいは私は日本の文字を読めない、読めても日本の小学生ほどしか読めないはずだと思っていらっしゃるのではありませんか。しかし、どんなに頭の悪い外国人でも、39年間勉強しましたら、小学生より覚えているはずです。
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キーンさんは「自分たちだけが特別だという確信を、このように強く抱いている国民が他にいるとは思えない」とまで言っているが、その強い言葉は、こういう経験から来ている。
ただ、この「特別」というのは、「特別に優れている、抜きんでていく」ということよりも、「特殊」ということだろう。
(「『源氏物語』に心を奪われてしまった」)
成人してから日本語を勉強したアメリカ人キーンさんが、中公文庫版で20巻近くある浩瀚(こうかん:書物の分量が多いこと)な『日本文学史』で『古事記』から三島由紀夫まで論じ、また新潮文庫版で4巻本の『明治天皇』を6万部も売り、毎日出版文化賞を受賞した。その業績そのものが、「外国人には日本文化は分からない」という迷信を打ち砕いている。
しかし、生粋のニューヨーク子だったキーンさんは、どんなきっかけで日本文化、文学を研究するようになったのだろう。
それは1940年秋、ドイツがフランスを占領し、英国までも空襲するようになった時期だった。ニューヨークの中心に或るタイムズ・スクエアの、いつも立ち寄る本屋で、ある日、”The Tale of Genji”(『源氏物語』)というタイトルの本が山積みされているのを見つけたことだった。挿絵から、日本に関する本だと察し、買ってみた。
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やがて私は、『源氏物語』に心を奪われてしまった。アーサー・ウェイリーの翻訳は夢のように魅惑的で、どこか遠くの美しい世界を鮮やかに描き出していた。私は読むのをやめることが出来なくて、時には後戻りして細部を繰り返し堪能した。
私は、『源氏物語』の世界と自分のいる世界とを比べていた。物語の中では対立は暴力に及ぶことがなかったし、そこには戦争がなかった。・・・
源氏は深い悲しみというものを知っていて、それは彼が政権を握ることに失敗したからではなくて、彼が人間であってこの世に生きることは避けようもなく悲しいことだからだった。
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遠い国の遠い昔の、戦争のない平和な時代の物語であっても、源氏の「この世に生きる悲しさ」に深く共感したところから、キーンさんの日本文学への道は始まった。
(「貴族的プチブル的腐敗した西欧人」)
昭和28(1953)年、キーンさんは京都大学大学院に留学して、京都に住むようになった。その初期の頃に雑誌「文学」から依頼されて書いたのが、『日本文学の古典』という本の書評だった。これは日本文学をマルクス主義に基づいて解釈した本だった。
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私は読んで、愕然とした。この本が『古今集』に触れていないのは、それが貴族によって書かれたもので民衆の手で書かれたものではないからだった。『源氏物語』は、支配階級の矛盾を暴露した作品として取り上げられていた。他の作品が称賛もしくは貶(けな)される基準は、それが「民主的」であるかとうかに掛かっていた。
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キーンさんが書いた書評は数ヶ月待たされ、その本の著者の一人による反論と一緒に掲載されていた。その著者はキーンさんが依頼されて書いた原稿を「投書」として片付け、キーンさん自身を「貴族的プチブル的腐敗した西欧人」と非難していた。
源氏の「この世に生きる悲しさ」に共感したキーンさんと、「支配階級の矛盾を暴露した作品」としてしか取り上げない生粋の日本人と、どちらが真の日本文学の理解者かは、言うまでもない。
日本文化は、外国人でも豊かで素直な感性を持っている人には深く味わえるものであり、生粋の日本人として生まれても空想的理論で頭が一杯になった人間には理解できないものである。いや、日本文化に限らず、すべての文化とはそういうものであろう。
(『曽根崎心中』の「道行」)
キーンさんの日本文学研究がどのようなものか、そのごく一端を紹介しよう。キーンさんは若かりし頃、近松門左衛門の浄瑠璃の翻訳に取り組んだ。その中で、相愛の男女が死に場所を求めてさまよう「道行(みちゆき)」の場面が出てくるが、そこで次のような発見をする。
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ふつう日本人の現代語訳では、「道行」の韻文はただの飾りとして無視され、削除されていた。近松研究家としての私の一番重要な発見は、「道行」の劇的重要性にあったのではないかと思う。
「道行」の間に、徳兵衛も治兵衛も(あるいは、近松のどの世話物の主人公でもそうだが)優男(やさおとこ)から、愛人と心中できる悲劇の主人公へと変貌するのだった。私は、これを「歩きながら背が高くなる」と書いた。
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私も人形浄瑠璃の『曽根崎心中』を見たことがあるが、この点には気がつかず、いつまで心中場所を求めてうろうろしているのだろう、と思っただけだった。事前にキーンさんの解説を読んでいたら、この物語をもっと深く味わえただろう。
それにしても、こういう深い解釈に接すると、それを書いている人が日本人か、アメリカ人か、などという事は意識に上らなくなる。人間性の根っこまで到達した表現には、言語や慣習の違いを突き抜けて、人間としての共感を呼ぶ。
キーンさんが、遠い異国の遠い昔の物語である『源氏物語』に心を奪われたのも、それと同じ事なのだろう。
(ヨーロッパに大きな影響を与えた江戸時代の美術品)
優れた文学や芸術は、国境も言語、宗教、民族の違いも超えて、人間の心の奥底で共鳴する。キーンさんの日本文学研究がその卓越した実例だが、こうした例は過去の歴史の中でも事欠かない。キーンさんは「世界の中の日本文化」の講演の中で、日本の江戸時代の工芸品がいかにヨーロッパで評価されたかを、紹介している。
長崎の出島にはオランダ人が住んで、日本との貿易をしていたが、それは日本がヨーロッパを知る窓であるとともに、ヨーロッパが日本を知る窓でもあった。出島のオランダ人は陶器や磁器を日本から輸出した。
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陶器はヨーロッパにはありましたが、日本のものと比べると粗末なものでした。日本の陶器に出会って、陶器というのはこういうものだと初めて分かったのです。オランダ人は日本人のまねをするようになりました。
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それが現在のオランダのデルフトという町に伝えられているデルフト焼きで、日本の染め付けの真似だという。中国も伊万里焼の真似をしていたが、粗末な安物しか作れず、ヨーロッパでは日本のものが高く売れた。それ以外にも、日本刀、浮世絵、漆器、蒔絵(まきえ)、扇子、屏風などが高く評価されていた。
浮世絵はヨーロッパの芸術家にも大きな影響を与えた。ゴッホのある絵の背景に、浮世絵が描かれている事も有名である。
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ヨーロッパの19世紀の画家で日本の浮世絵の影響を受けなかった人は、ほとんどいなかったと思います。パリの近代美術館に行きますと、各画家の部屋があって、その中に、アトリエにあったような道具とか、物が置いてありますが、すべての画家のアトリエに浮世絵があったということがわかります。浮世絵はヨーロッパの芸術家に大きな影響を与えました。革命的な影響を与えたともいえるでしょう。
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(一つの民族がその文化を深めていけば)
現代日本の芸術も、世界に大きな存在感を示している。たとえば最近、引退宣言をしたアニメの巨匠・宮崎駿。海外でも大きなニュースとなり、引退を惜しむファンの声が寄せられた。
・(アメリカ)いろんな外国映画があるけど宮崎の作品は字幕がいらない。アニメだけで楽しめる。外国の伝承とか昔話を知らなくても、一度観てほしいな。
・(フランス)『千と千尋の神隠し』には衝撃を受けたな。詩的なタッチと日本独特の慣習、民俗が融け合っていた。まさに傑作だし、アメリカのアニメーションとは比べ物にならないレベルだと思うよ。
・(スペイン)彼の作品のストーリーや絵は、まるで夢の断片の組み合わせのようだった。巨匠・宮崎がもう作品を作らないのかと思うと寂しいよ。
これらの感想は、キーンさんが「源氏物語」に魅了された光景と重なってくる。一つの民族がその文化を深めていけば、他民族の人々も共感できる人類共通の根っこに到達するのである。
我が先人たちは、そうした深い文化、芸術を豊かに残してくれた。我々はその遺産を受けついだ者として、どれか一つの分野でもいいから、その価値を味わえる教養を身につけたいものだ。文学が好きな人なら、キーンさんという絶好の道案内人がいる。
(文責:「国際派日本人養成講座」編集長・伊勢雅臣)
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