皇室は今も昔も庶民たちの精神の生み出した文化伝統の保護者である。
(「夏の日に音たて桑を食(は)みゐし蚕(こ)ら」)
蚕食(さんしょく)という言葉がありますが、本当に蚕(かいこ)は桑を与えると葉の端からいっせいに食べ始めます。そのとき小雨を思わせる音がするのですが、皇后さまはその音がお好きで、蚕に耳を近づけては聞き入っておられます。
こう語るのは、皇居内の紅葉山御養蚕所主任の佐藤好祐(よしすけ)氏。ここでは毎年5月初旬の「御養蚕始(ごようさんはじめ)の儀」から、7月初旬の「御養蚕納の儀」に至るまで、約2ヶ月の間に蚕を飼い育てて繭(まゆ)をとる作業が行われる。
この間、皇后さまは多忙な公務の間を縫って、何度も御養蚕所に足を運ばれ、実際の作業を佐藤主任などと一緒にされる。
平成15年には23回のお出ましというから、二、三日に1度の割合である。
夏の日に音たて桑を食(は)みゐし蚕(こ)ら繭ごもり季節しずかに移る
(皇后様お歌、昭和41年)
葉かげなる天蚕(てんさん)はふかく眠りゐて櫟(くぬぎ)のこずゑ風渡りゆく
(同、平成4年)
こうして得られた真っ白な繭は、製糸場に送られて生糸にされ、純白の絹布に織り立てられる。絹布は宮中の儀式や祭祀に用いられるほか、愛子様の産着にも使われた。さらに染色して婦人服地とされ、外国の賓客への贈り物にも用いられる。
天皇は稲作をされ、皇后は養蚕をされる。神代の頃からのこのような伝統を今も守っている皇室は世界にも例がないだろう。
その皇后のお手になる絹の服地は、まさに日本の伝統文化の象徴である。
(代々の皇后に受け継がれてきた「皇后御親蚕」)
皇后さまは、ご養蚕が「皇后御親蚕」として代々の皇后陛下に受け継がれてきたということを、とても大切にお考えになっているのです。
と、佐藤主任は語る。皇室と養蚕のゆかりは古く、その始まりは明らかではないが、『日本書紀』に雄略天皇(第21代、西暦470年頃)と皇后が養蚕に関心を持たれたという記述が見られ、『万葉集』にも孝謙天皇(第46代、718~770)が養蚕豊作を願う行事を行われた歌を大伴家持が詠んでいる。
その後、宮中の御養蚕は幾度かの中断を経つつも、受け継がれて、明治以降は「皇后御親蚕」という形で代々の皇后に継承されている。
皇后さまは平成2(1986)年に御養蚕を引き継がれてから、毎年この作業を楽しみとされている。
約2ヶ月にわたる紅葉山での養蚕も、私の生活の中で大切な部分を占めています。毎年、主任や助手の人たちに助けてもらいながら、一つひとつの仕事に楽しく携わっています。
御養蚕には、ときに秋篠宮家の眞子内親王、佳子内親王も伴われるそうである。
養蚕のときに、回転まぶしの枠から、繭をはずす繭掻きの作業なども、二人していつまでも飽きずにしており、仕事の中には遊びの要素もあるのかもしれません。敬宮が大きくなり、三人して遊んだり、小さな手伝い仕事ができるようになると、また、楽しみがふえることと思います。
(「小石丸を育ててみましょう」)
御養蚕所で飼育されている蚕には、日中交配種と欧中交配種とならんで、日本産種の「小石丸」がある。良質の糸を出すので、江戸時代から明治半ばまで一般の養蚕家で広く飼育されていた。しかし、繭が小さく、とれる生糸の量が少ないことから、次第に日中交配種や欧中交配種などの新品種にとって替わられ、現在では一般の養蚕農家では飼育されていない。
御養蚕所でも小石丸の飼育中止が検討されたが、皇后様の
「日本の純粋種と聞いており、繭の形が愛らしく糸が繊細でとても美しい。もうしばらく古いものを残しておきたいので、小石丸を育ててみましょう」
とのお言葉によって、日本でただ一カ所、皇居の中でのみ小石丸の飼育が続けられていたのだった。
平成5年、奈良の宮内庁正倉院事務所から、侍従職に宝物の染織品の復元にあたり、小石丸が奈良時代に用いられていた種類にもっとも近いので、「御養蚕所の小石丸を使わせていただけないか」という、問い合わせがあった。
(「正倉院染織品復元10か年計画」)
正倉院は、天平勝宝8(756)年、聖武天皇のご冥福を祈って、光明皇太后が、書跡、服飾品、楽器、調度品、刀剣その他天皇ご遺愛の品を中心に六百数十点を東大寺に献納されたのが、起源である。その後も東大寺での儀式に用いられた品々なども加えられ、現在、整理が完了しているものだけで9千点近くが納められている。
大陸から伝えられたものも少なくないが、日本で製作されたものも多く、奈良朝の生活文化がうかがえる(最近の調査では9割がた日本産といわれている)。
明治になってから、宝物の復元が盛んになった。宝物の修理を行うにしても、見ただけでは構造や技法が分からないので、「ためし」と呼ばれる模造品が作られるようになった。
昭和47(1972)年からは、材質や技法を調査研究して、宝物に限りなく近い材料を入手し、当時の技法に従った復元が行われるようになった。その一環として平成6(1994)年から米田雄介・元正倉院事務所長の企画・立案で「正倉院染織品復元10か年計画」が始まり、絹織物の復元が試みられた。
(小石丸は御養蚕所にしかない)
復元を依頼されたのは、京都の川島織物。天保14(1843)年の創業以来、150年以上も日本の伝統的な織物を製作してきた老舗である。川島織物では、古代織物研究家の高野(こうや)昌司さんを中心に、糸、文様、染色、製織など各部門から合計7人のエキスパートが集まって、宝物復元チームが作られた。
まずは試し織りをしてみたが、宝物と同じ織り密度にしているにもかかわらず、実物とはどうも風合いが違う。宝物の方がふわっとしていて軽い。糸を細くして、織り密度を低くしても、やはりうまくいかない。
川島織物のチームは、さすがに専門家だけに、古代の糸に近い雰囲気を持ったものと言えば小石丸であり、それは今、御養蚕所にしかない、という事を知っていた。
これはやはり皇后陛下に御願いするしかない、と、米田元所長が皇后陛下のお世話をされている女官長にお話しされた所、数日後、侍従職から「天皇・皇后両陛下が、たいへん御興味を持たれている」という電話があった。
しかし、復元には生繭で40キログラムほどの量が必要であり、御養蚕所では毎年6~7キログラムしか作られていなかった。皇后陛下はすぐに増産の許可を出された。
翌年、小石丸の増産が始まった。蚕の餌である桑の葉も6倍、多い時には一日400キロもの葉を摘まなければならない。助手も増員し、蚕棚などの設備も整えなければならない。養蚕所は大変な苦労をしながら、増産にとりかかった。
---owari---
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