今回のシリーズ、「伊達政宗」は今日で終わりです。
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すでに教会や礼拝堂は壊されていた。しかし、各自の家庭の奥までは調べさせない。それゆえ、観音さまに十字を刻んで拝もうと、心で天帝を拝みながら念仏会をやろうと、それは勝手だ。考え方にせよ、産れる時は両親からとするお伊勢さまのありようを、よくよく思案のもとにして考えて見よと申し渡した。
この宗教観は、幼時から禅という、偶像否定の宗教に鍛えられて来ている政宗なればこそ言い得ることであった。
事実、このようにして、領主がかくれ念仏や、かくれ切支丹を暗に許した例は日本中にほとんどない。それだけ政宗は新しくもあったし、深くもあったと言ってよい。
当然、そうした態度は、生活経験の豊かな常識階層には深い共感を呼んでいった。
この共感を踏まえて政治はすべきものというのが、家康を認めた後の政宗の生き方であり、悟りになった。
この頃から彼は、領民にも身辺の重臣たちにも、
「人間は、この世へ客に出された旅人である」
という実感をよく口にしてゆくようになった。
「人間というは、永遠の生命の壷の中から、生命をわけ持たされて、この世に客に出されてきた旅人なのだ。元来が客の身なれば、三度の食事が口に合わずとも、あまり不平は言わぬもの…」
というのである。
これは、江戸へ出て来て思いのままに皮肉を言い廻る奔放自在な彼の行動とはおよそ異る実直さである。
この実直さの中に、実は彼の、政治の妙諦はあったと信ずる。いや、あらゆる生命の危機をくぐりぬけて来た奇傑(きけつ:一風変わった、すぐれた人物)の、これが真正な発見であり、悟りであったに違いない。
「生命は永遠なるもの…」
そう気づいてみると、自分はこの世へ、五十年か六十年かの期間を限られて、客に出されて来た旅人だったというのは、何という息苦しい人間の生涯を語り尽くした言葉であろうか!
「客の身なれば、あまり不平も申すまじ」
と、なっては、彼ほど奔放(ほんぽう)に見えた男の生涯にも、それほど大した自由はなかったのだと察せられる。
「しかも尚、代々の人間は、この世に生命の存するかぎり、永遠に自由を求めて走り続ける」
それゆえ、自由は大切にしなければならないのだという実感が、この中にはかなり哀れな余韻をふくんで盛りこまれている。
いや、その切ないほど真剣な実感があればこそ、彼もついに家康のめざす「泰平招来」に共鳴し、その中に自分の政治のタイプを適応させてゆく気になったのだとも受けとれる。
とにかく、元和四年閏三月、江戸から仙台へ帰った後の、伊達政宗の政治姿勢は一変した。
その直接の動機は、振姫(ふりひめ:家康の孫娘)と忠宗(政宗の次男)の婚儀にあったのであろう。これで将軍秀忠に武器をもって戦わなければならない理由は、一応消滅した。もっと直接的に言えば、自分の生きてある限り、権力の車輪にかけて蹂躙(じゅうりん)される恐れはなくなった。
そうなれば、政宗ならずとも、政策も心境も一変してゆくのが当然だったと思われる。
とにかく、去年までの政宗の領国経営は、つねに万一のおりの用意が真っ先だった。軍備がつねに第一で、それを忘れた経営などはありようがなかった。
ところが、今年からはそれが変った。
(泰平は、根づきそうだ…)
という感じ方が、いつの間にか、
(根づかせなければならない!)
の願望に変っている。
彼はまず真っ先に、モヤモヤとくすぶり続けている宗教問題に彼独特の、知って罰さずの方針を打ち出すと、すぐその足で領内北諸郡の巡察に出かけた。この巡察に一カ月以上かかっている。
(『歴史小説浪漫』作家・童門冬二より抜粋)
---owari---
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