少年少女の「フランス代表団」をひきいて、伏見稲荷に詣でました。代表団といっても、十代の、例の私の長男長女と、甥っ子の三人だけですが。
耐えがたい日盛りのなか、耳を聾(ろう:聞こえない)する蝉の声は、さながら天を穿(うが:つらぬく)って、そこから群青(ぐんじょう)を奪ってくるかと思われるばかり。赤い鳥居がどこまでも続く迷路を見るや、子供たちは一散に遊びはじめました。
格好の、隠れんぼや追いかけっこの遊び場とばかり・・・・・。私は好きにやらせておきました。やや高まったところへ来ると、彼らはあたりの自然を眺めだし、素っ頓狂なことを言わなくなってきました。
さらに一段高くなると、参道はおのずと子供たちの心に浸透していくかのようでした。ここを通っていく間に、どうやら何かが内側から働きかけてくるらしいぞ、と。いつのまにか、口を閉ざし、目を凝らしています。ふと、全員、歩みを止めました。いまや、三人の若者は、全身に霊気を滲(にじ)みこませているようです。
目を射るばかりに鮮やかな鳥居の朱は、光を蓄え、遠く京の町は蜃気楼(しんきろう)のようにかすんでいます。もはや、唯一の現実は、突如急勾配となった、この上り坂のみ。ここまで来ると、誰もが悟りはじめているのでした。もはや、到達ということが問題ではないのだ、と。
天まで近づくということが大事なのでしょうか。否。天は、なお遠のくばかりなのです。登るときは、きっと、絶えず繰りかえすことなのでしょう。ひたすら登ることのみが大事なのではありますまいか。ほかに何がありましょう。時が変容し、活力を付与されるということ――これぞ、妙諦(みょうてい:神髄)なのです。
その昔、人類がシナイ山で、またアララト山で直観した実在とはかくのごときかと、法悦境(ほうえつきょう:仏教の教えを聞き,または味わって喜ぶこと)に私たちは、いま、浸(ひた)っています。
このような実在を、ついに科学は破壊せしめることはできますまい。科学が我々に示したことは、物理的現象は物理的原因から生まれるということでした。いかにも、左様。が、だからといって、もう一つ別の実在もあるということを、科学は絶対に否定しきれないでありましょう。
とある小さな祠(ほこら)のまえで私は立ちどまり、恭(うやうや)しく柏手を打ちました。すると、娘がこう尋ねるのです。
「ねえ、パパはキリスト教徒なのに、どうして、よその国の神さまを拝むの」
そこで私はこう答えました。
「神さまとか何とか言ったって、結局、人間が作ったものじゃないかという連中がいるがね、そんなことはどうでもいいことなんだよ。もしも、この世に、神々しい力があって、それが私たちにそのおしるしを感じさせてくれるとしたら――キリスト教の信仰もそうなんだけれどね――そのような力は、どんな国でも、どんな人々にとっても、おんなじだと言って間違いはないのだよ。
いろいろな文化圏で、違う呼び名があたえられているだけなのさ。どうだっていいじゃないか、名前なんて! どんな人間だって、心や記憶というものを持っているし、それと同じように、高いところからの呼びかけにも応ずるようになっているのだよ。
ここのお社は、お狐さんに守られているがね(うん、もちろん、私たちフランス人にとっちゃ変てこりんだが)、ここにも、何かしら尊いものが、ちゃんといらっしゃるのさ。それはけっして、キリスト教の信仰にとって、ライバルなんかじゃないとも。世界共通の尊いものといっていいんだよ!」
*ジェルマントマ著書「日本待望論」より転載
---owari---
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