今回のシリーズは、伊達政宗についてお伝えします。
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家康が、ほんとうに秀頼を憎んでいるのなら、何で関ケ原のおりに秀頼母子を助けたのか?
わさわぎ秀頼を助けておいて、孫娘の千姫を嫁がせたり、度々江戸から京まで秀頼に会いに行ったりする必要がどうしてあろう。
そればかりか、秀吉の七回忌には、世界中がびっくりするほど盛大な「皇国祭」を京都でやって、自分は将軍職を退いて駿府へ隠居しているのだ。
そして、それらの好意は、淀どのもまたよく知っているし、秀頼も充分に感謝している。
つまり、両者の間に殊さら言い立てるほどの憎悪感情もなければ、家康が秀頼母子をいじめたという事実も介在してない。
秀頼母子だけではない。大坂方の重臣たちにしても、誰一人として家康に個人的な反感や憎しみを抱いている者はないのだ…
大野治長は、かつて淀どのとの間の素行を責められて追放はされていたのだが、それを真っ先に許して大坂城へ帰してくれたのは家康だったし、片桐且元(かつもと)(豊臣家の直参家臣)にしても繊田有楽(うらく)にしても、豊家や淀どのとの関係を考えて、わざわざ家康から秀頼に付されているようなものであった。したがって、両者の関係は個人的にも公的にも親藩以上の恩愛でつながれた、戦国時代には例のない密度を持った保護者と被保護者の間柄であった。
それだけに古い侍女たちの間には、
「大御所はの、実はご母公(淀どの)に惚れておわしたのじゃ」
「そうじゃ。ご母公とて同じことでの、大御所が大坂の二の丸におわす頃には、お二人の仲はそれはそれは睦まじゅうおわしての……」
いまだにそんな噂を囁(ささや)き続ける者があるほど親しかったのだ。
それが、ここ一両年の間に、どうしてこう険悪さを孕(はら)んで来たのか?
どう考えても、原因は見当らない。とすればこれは新しく、大坂城に流れ込んで来た異分子たちの影響と解するよりほかにあるまい。そして、その異分子を呼び込んだのは、実は人間ではなくて、この巨大な城郭なのだと、伊達政宗ばかりか、織田有楽斎までが考えだしている近頃だった。
(『歴史小説浪漫』作家・童門冬二より抜粋)
---owari---
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