このゆびと~まれ!

「日々の暮らしの中から感動や発見を伝えたい」

己れに厳しくあれ

2021年03月02日 | 人生
「悟り」とは、言葉を換えれば、
我らが霊的に目覚めることの困難であるこの地上において
勝利してゆくための道であるということだ。

勝利への道が悟りへの道であるということなのだ。
この地上において勝利するためには、
まず自らが、自ら自身が、
自らの人生の舵(かじ)をとっているということを
知らなくてはならない。

自らが自らの人生に対して責任を持っているということを
知らなくてはならない。
誰のせいでもない、
自分自身が過去数十年生きてきて、
こういう人生を築いてきたのであるということを
認めなくてはならない。

潔く認めなくてはならない。
自分の人生に責任を取るということが、
勝利への第一歩であるということを
知らなくてはならない。

人びとよ、胸に手をあてて考えよ。
己れ自身の人生にどれだけの責任が取れるかを。
現在ただ今の自分のあり方に不満もあろう。
不運であったという思いだってあるだろう。
いまだ幸福は得ていないという思いもあるだろう。
中くらいの幸福を得たという人もいるであろう。

しかし、過去の数十年をふり返ってみて、
それらすべてを我が心の諸現(しょげん)だとして、
我が心の現れだとして受けとめ、
そして今日一日を閉じ、
明日からの生き方を決定してゆける人がどれだけいるか。
そう思ったときに、自らの弱さに涙が流れるであろう。
それでよい。

それでこそ、勝利するための第一歩が始まったと言えるのだ。
あなた方は、自分に対して厳しく律してゆかねばならない。
甘い心で生きてはならない。

人間は自ら幸福を求めるようにつくられているが、
この幸福の内容を、この幸福の質を、
ともすれば間違った方向にとらえてゆくことが多いのだ。

間違った方向とは何であるか。
それは、自分自身を甘やかす方向に、
自分自身が楽な方向に流れてゆくことだ。

しかし、何度も何度もくり返し言っておこう。
そうした生き方は、
一時期あなた方を幸福にすることもあるだろう。
現に今、そうした自らを甘やかす思いにおいて、
幸福感を味わっている者もいるであろう。

けれども、私は言っておく。
そういう幸福はかげろうのごときものであるということを。
朝日が昇ったときに融(と)けてしまう霜(しも)のような、
はかない幸福であるということを。

己れの心に厳しくありなさい。
己れの人生に対して責任を持ちなさい。
そこからすべてが始まってゆくのである。

あなた方が、現在不幸であるのは、
神のせいでも、
あなた方の守護霊のせいでも、
親や兄弟や友人たちのせいでもない。

その心の状態をつくっているのは、
日々一瞬一瞬に自分が選択している、
その思いにあるのだ。

その思いの積み重ねにこそあったのである。
思いを積み重ね、積み重ねして、
現在の心境というものはできてきたのである。

それがあなたであるのだ。
あなた自身であるのだ。
あなた自身が何者であるかを知りたくば、
過去の事実を見る必要はない。
過去の思いを見れば、それがすべてであるのだ。

今から何年か何十年か後には、
今、生きている者も、
すべて地上を去ることになるわけであるが、
地上を去ったその時に、
自らが何者であるかを知る手だては、
この地上における自ら自身の人生の姿そのものの
回顧(かいこ)にあるということである。

姿という言葉は十分でない。
あなた方自身の思いの連鎖(れんさ)がそこに示されるのである。
スクリーンに、映像に、
外面だけでなく、
思いが、考えていたことが、
その人となりが出てくるのである。

写真に撮れば、どの人も外見は立派な身なりをしているが、
数十年の心の映像を映(うつ)されたら、
どのようになるか、わかるだろうか。

「それは自分ではない」と、あなた方は言うのである。
「そんなはずではない」と言うのである。
なぜならば、
間違った思いや、醜(みにく)い思いを持って生きている人は、
その姿が、そういう姿として映るからである。

あなた方は、「これは違う」と言うであろう。
「自分に似ているが別人だ」と言うであろう。
いや、しかし、それがあなた自身であったのである。

心のなかに去来しつづけてきたものを点検してみるがよい。
そうすれば、その映像があなた自身であったことを
否定はできないはずである。

自分自身の真なる姿がいかなるものであったかを
知らなかったという、その責任は、
己れ自身にあったということなのである。

それは他人にはない。
自分の姿を誤ったふうにとらえられていたのは
己れ自身の目ではなかったか。
そういう見方をしないために、
「正しく見る」ということを教えられているのではないのか。

八正道(はっしょうどう)のなかには
「正見(しょうけん)」というものが入っているはずである。
これが最初である。

目に映るものを目に映ったものとして
感じとることは簡単である。
しかし、それでは正しく見たことにはならない。

「正しく見る」とは、
神の心でもって、
己が姿を、他人の姿を、
そしてこの世界の姿を映してみるということなのである。

何か違ったふうに見えているはずである。
何が違っているのか、それを見抜かなくてはならない。

それが、ただいまできないというならば、
やがて必ず、数年後、数十年後に、
「これは自分ではない」という言葉を、
自分自身が撤回(てっかい)するまで見せられる事実となって
現れてくるのである。

それがあなた自身なのである。
今、現在ただいま生きておりながら、
生きている最中に
自分自身の正しき姿を見つめることなくば、
必ずやそのところをふり返らざるを得なくなるのである。

私たちは、過ちを重ねるような、
そんな借金多き生き方をしたくはないものだ。
そうではないだろうか。

せっかく人間として生まれて、
立派な人生を生きようとしているのに、
その人生を閉じるところまで
自分自身の真なる姿がわからなかったというような、
そんな生き方をしたくはないものだ。

そうではないだろうか。
ならば、いま、現在ただいまにおいて、
己れに厳しくあれ。

人間は、どうしても自分に甘くなるのである。
己れには甘く、
他人に対しては非常に冷酷な、残忍な、
そういうものの考え方をするのである。

なぜならば、自分自身が苦しむのは
自分の感覚としてわかるのであるが、
他人様(ひとさま)が苦しんでも、
それを少しも感じないからである。

自分のことだと思わず、他人事(たにんごと)だと思うからである。
しかし、他人の心を
自分の心と同じように感じるようにならなければ、
神の子とは言えないのである。

---owari---
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