③今回は「作家・津本陽さん」によるシリーズで、織田信長についてお伝えします。
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「吉野はおもしろき女子だのん」
「なにゆえにござりまするか」
「いつにかわらず、酒をこころゆくまで呑めと、すすめおるだわ」
歯を見せる信長に、吉野はなにげない風情で応じる。
「呑みたきものを呑めば、よいのでござりまするに。欲するままに呑んでお寝みあそばいて、身に毒になろうはずはござりませぬわなも」
信長はおちつきはらっている吉野に、そういわれると、気分がなごやかになる。
吉野は信長の気質、嗜好(しこう)をすべてこころえていた。彼女は信長に惚れこんでいるので、努力することなく、恋人の性格に同化している。
つまり、二人は一心同体であるといえた。
信長が熟睡できるのは、吉野と閨(けい:寝室)をともにした夜だけであった。
彼は生駒屋敷に泊ると、翌日の陽が中天にのぼるまで、ひたすら熟睡をむさぼることもめずらしくはなかった。体内に溜った疲労が、泥のように溶けて流れ出ていったのがわかる。こころよい目覚めのときを迎えるまで、吉野は信長を寝かせておいた。
奇妙、茶筅(ちゃせん:男子の髪形を茶筅のような形にしたもの)の二人の男児と、生れてまだ一年にならない徳姫を、信長とのあいだにもうけた吉野は、いまでは彼をがんさい(いたずら)息子のように見ることができた。
「あなたさま、さきほど兄さまより聞き及びしに、駿河の治部大輔(じぶのたいふ:治部省の次官二人中の上位者)が間者ども御領内へ入りこみ、ご難を加うるやも知れずと、肝を寒ういたしおりまするほどに、これよりのちお外出の折りには、かならずお供のご人数を多数ご用意あそばされて、ちょーだいあすわせ」
信長は酒をふくみつつ、吉野をながしめに見た。
「戦ごとは、女性の口出しいたすところにあらず。さようなることは申すでないぞ」
吉野は黙らなかった。
「間者風情に命をとられては、犬死にと申すものでございまするに」
信長は、険しい眼になった。
信長は彼の死を口にした吉野に、心を刺された。疑心が黒雲のように湧きあがってくる。
「吉野は、儂が死ぬのを待っておるのかのん」
信長の薄い上唇が、内心の不興を示しひんまがった。
吉野は表情を変えた。
「なにを申されまする。吉野があなたさまより後に残って、なにを楽しみに生きられまするかも。あなたさまがお果てになったるときは、私も死にまするものを、なんでさようなことを勘違いいたしましょうぞ」
信長は吉野のはげしい口調に、気勢を挫(くじ)かれた。
―この女子は、いつわりを申してはおらぬだわ-
吉野の上気したあでやかな顔を見つめる信長の心中に、感動がひろがる。
(『下天は夢か 1~4』作家・津本陽より抜粋)
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