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三成は最初の固定観念に、諸情勢・諸条件をあてはめたため破れる

2023年10月17日 | 歴史
⑳今回のシリーズは、石田三成についてお伝えします。
三成は巨大な豊臣政権の実務を一手に担う、才気あふれる知的な武将です。
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「兵力を分散しすぎまするな」
と、この大戦略をたてた当初、謀臣(ぼうしん)の島左近が首をひねって消極的な反村をした。が、積極的に三成の構想に反対する能力は左近にはなかった。

左近の得意とするところは、局地戦闘の指揮にある。三万の兵を指揮して五万の敵と戦わせれば島左近ほどの勇敢で智略に満ちた指揮官はいないであろう。
が、天下を両分してその一を持し、他の一に当たるという大戦略の構想は、なんといっても若いころから秀吉の側近にいてその戦略の樹て方、進め方をまざまざと見てきた三成の領分に属する能力であった。自然、こんどの一挙では、戦略は三成がうけもち、戦闘は左近がうけもつ、という分担になった。

「これでいい」
と、三成の信念はゆるがなかった。家康が出てくるまでに時間がありすぎる、と三成は観測している。それも不動の観測をくだしている。豊富すぎる待ち時間のあいだ、諸将を陣地で遊ばせておけば自然の惰気が生じ、敵に謀略をもって切り崩されぬともかぎらない。

「なるほど」
としか、島左近は言えなかった。左近にすれば丹後、近江、伊勢の田舎の小城を陥しているより、日本列島の中央平野における予定戦場にできるだけの兵力を結集しておくほうが急務ではないかと思うのみである。

「なんの、家康はなかなか来れまい」
という三成の観測が、あくまでもこの戦略の基盤になっている。
「田舎の小城というが、それを攻めることによって烏合の衆が一つの心になってゆく」
というのが、三成の意見だった。

この寄り合い世帯の西軍の諸将をして弾丸の洗礼を受けしめることによって彼等の戦意を高め、団結をかため、亡ぶも栄えるももろとも、という共同運命感を盛りあげてゆく。百の政治論議よりも一度の合戦のほうが、かれらを固めさせる契機になるであろう。これが、石田治部少輔の戦略理論であった。

「しかし、家康が、こちらの想像を裏切って早く来ればどうなさいます」
「そういうことはない」
三成は言いきっていた。敵が生き者である以上、敵の動きをそう言いきることはもっとも柔軟な思考力をもつべき戦略家としてあまりにも信念的でありすぎるのだが、この頑固さは三成の性格的なものかもしれない。ただしこの一戦に快勝すれば、三成はその不退転の信念と不動の覿測能力を理由に逆に好意的に評価され、日本史上最大の名将といわれるにいたるであろう。あとは賭博かもしれない、と島左近はおもうのである。

美濃の大垣城に入ってからも、島左近はなお疑問を提示した。
「どうでありましょう」
と左近はいうのだ。木曾川むこうの尾張清洲城に東軍諸将が集結している。家康の本陣こそ来着しないが、来着せずとも、清洲結集の東軍はそれだけでも美濃の城々にいる西軍より大部隊であり、かれらが野戦軍として、二千三千の守備兵しかいない美濃の城々を攻撃すれば、すさまじい破壊力を発揮するであろう。

「心配は要らぬ」
というのが、相変らずの三成の観測であった。観測というより信念であろう。信念というよりも自己の智恵に対する揺ぎなさが、三成の性格であったろう。三成が敬慕する秀吉や信長の場合、すべての情勢と条件を柔軟に計算しつくしたあげく、最後の結論にむかって信念的な行動にうつるのがやりくちであったが、三成の場合は最初に固定観念がある。その観念に、諸情勢・諸条件をあてはめてゆき、戦略をたてる。

自然、その戦略は動きがとれない。
(逆だ。-)
と島左近はなんとなくそう危なっかしく思うのだが、それを駁論(ばくろん:相手の意見に反対して非難攻撃すること。その議論)するだけの戦略感覚を左近は持ちあわせていなかった。左近はあくまでも名人肌な局地戦闘家なのである。

ところが事態は、一変した。
木曾川むこうの尾張清洲城に屯集(とんしゅう:人が群がり集まること)している東軍諸将が、家康も来着せぬのに、自儘(じまま:自分の思うままにすること)に動きはじめたのである。

「彼等が川を渡って岐阜城にむかった」
ときいたときの三成の驚愕(きょうがく)は、大げさにいえば天地が逆になったほどのものであった。
「まことか」
と、その報をもたらした者に、三成は何度かききなおした。ありうべからざることであった。事実とすれば、三成の固定観念はこの瞬間に雲散霧消し、戦略構想はその根本から音をたてて崩壊し去ったといっていい。

「誤報だろう」
と、正直なところ、三成は思った。当然、誤報であるべきだった。この自己の信奉者にとっては、そういう敵の動きは、敵こそおかしいのである。

-敵は間違っている。
と三成は怒号したかった。しかし敵は三成にすれば間遠っているとはいえ、すでに木曾川を越えきってしまったのである。
しかも、岐阜城を陥してしまった。
この間、三成は自分の、つまり石田家の兵を割いて援兵として送ったが、その程度の増援では焼け石に水であった。

(『歴史小説浪漫』作家・童門冬二より抜粋)

---owari---
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