㉑今回のシリーズは、石田三成についてお伝えします。
三成は巨大な豊臣政権の実務を一手に担う、才気あふれる知的な武将です。
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三成はそういって、宇喜多秀家の旅館を出た。城にもどると、一同が騒いでいる。西方の天にしきりと火煙があがっているという。三成はいそぎ天守閣へのぼった。
(なるほど)
方角は西である。中山道垂井から関ケ原にかけて黒煙があり、すでに薄暮(はくぼ)だけに火があかあかとみえる。ありようは、東軍の藤堂高虎が、そのあたりに滞陣するにあたって敵襲に備え、民家が敵の防御に使われぬよう、せっせと焼き立てているにすぎない。
が、三成は別の反応を示したく
(佐和山城があぶない)
と見たのである。
なるほど美濃から近江佐和山に出る道が、垂井-関ケ原の中山道である。敵は美濃から一挙に三成の居城の佐和山を衝くのではないかと三成は考え、いそぎ階段を降り、島左近をよび、
「おれはちょっと佐和山に帰る」
と言いだした。
左近はおどろき、わけをきくと、例の西方の火事である。左近もすでに望見して知っている。しかし敵に佐和山急襲の意図があろうとは思えなかった。
(大変な、想像力だな)
妙に感心した。その想像はいい。想像してうまれる反射が、三成の場合つねに受け身なことだった。
たとえば敵の疲労を想像して夜襲を思い立つという積極的な反射ではなく、敵の放火をみて自城の防御を思い立つという消極的な反射では、戦さは主将の反射がするどければ鋭いほど受け身になり、ついには窮地に追いこまれてしまう。
(頭のするどいお人だが、やはり素人だ)
と左近はおもった。
戦さは、頭脳と勇気と機敏さの仕事だが、その三つがそろっていてもなにもならない。三成の場合、その三つは信長、秀吉とさほど劣らぬであろう。しかし致命的にちがうのは、三つを載せている資質だった。受け身の反応なのである。左近はそう思いつつ、素人だとおもった。
「あの火はそうとは思えませぬ。もし東軍が佐和山城を攻めるならそれこそ勿怪の幸い(もっけのさいわい)、宇喜多勢と手を合わせて敵に追尾し、背後から撃ち、佐和山城番の衆と呼応して敵を挟み討ちにすればよろしゅうございましょう」
「いや、気になる。戻ってみる」
「この夜中、陣を捨てて?」
左近はあきれた。
三成はこれだけの大戦さの準備で心気を労したあまり、気の病いにかかっているように思われた。
「それほど気になさるなら、拙者が駈け行って参りましょう」
「いや、わしがゆく。城の防ぎの手くばりを締めなおした上、死守せよ、と申してくる」
「殿」
左近は袴をとらえた。
「すでに博打ははじまっております。佐和山の一つや二つ、お捨てなされませ」
三成はふりきって支度をした。敵中を突破する以上、変装せねばならぬ。このため家臣に垢だらけの小袖、伊賀袴を借り、それを着用して供三騎をつれ、ひそかに大垣城を抜け出した。味方にもだまったままである。
(やれやれ、気ぜわしいことよ)
左近は首筋の凝る思いだった。いかに三成が小身者とはいえ、西軍の謀主(ぼうしゅ)であり、事実上の大将ではないか。
暗夜の街道を駈けながら、三成もその点が物哀しかった。
(これでも謀主か)
と思うのである。家康はこんなことをしていないであろう。正式の指揮権をもたぬ、小身者のかなしさであった。
(『歴史小説浪漫』作家・童門冬二より抜粋)
---owari---
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