たとえば、宇宙人が円盤に乗り、はるかなる星から地球へやってきて、梅雨の時期の日本に着陸したとしましょう。
そして、円盤から出た宇宙人が、「この地球という星は、来てみたものの、何だか知らないが、ザーザーと雨ばかり降っている。実におもしろくない星である。こんな星からは、早く立ち去ってしまいたい」と考えたとしたならば、可能性の広がる余地はそれまでだと思います。
地球の可能性に関しても、自分の活動の可能性に関しても、それで終わりです。
しかしながら、地球では、雨が降ることもあるけれども、もちろん晴れることもあるわけです。そういうことに気がつくかどうかです。
そして、カラッと晴れ上がってみると、「この地球という星も、けっこう住みよいのではないか」と思えることがあるでしょう。
ところが、最初に来た日に雨が降っていたため、「ああ、こんな星は駄目だ。こんな所は駄目だ」と決めつけたならば、それ以上の可能性はないのです。
自分を決めつけて、可能性を放棄してしまうことになり、次なる星を目指して、また宇宙空間を漂わねばならなくなります。これは非常な徒労です。
地球に踏みとどまり、長くて一カ月も待てば、梅雨は明けます。しかし、そうした我慢ができないために地球を飛び立って、また何十年も宇宙をさすらうようになるのです。
このようにして、取り越し苦労性の宇宙人が出てくるわけです。
宇宙人のたとえで語りましたが、みなさん自身も、実は同じようなことをしているのです。
たとえば、結婚している人で、「相手さえ違えば幸福になれる」と思っている人はいませんか。正直なところ、どうでしょうか。
「いまの家内でなかったら」「この夫でなかったら」などと思っている人は、結婚している人のうち、五十パーセントではきかないでしょう。おそらく八割から九割ぐらいまでの人が、そう思っているのではないかと思います。
そう思ってはいけないとは知りつつも、本心としてはそう思っていて、「もし取り替えることができたならば、いや、もっと早い段階で気がつくことがきたならば、違う人生があったかもしれない」と思いつづけて三十年・・・・・などということがあるのではないでしょうか。
しかし、これも梅雨期に地球に着陸した宇宙人の話に似たようなところはあるのです。
ここにおいて大事なことは、一つには、発想の転回、すなわち、新たな発想を持つことです。別な視点がないかどうかを、常に考えてみる必要があります。
もう一つには、努力や工夫といわれるものの存在です。
ここのところが、極めて大事なのです。
『別な視点がないかどうかを、常に考えてみること』(仏法真理)
---owari---
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