インド独立の起爆剤となったインド国民軍と日本陸軍の戦い。
(ネルーの裏と表)
後に初代インド首相となるジャワハルラール・ネルーは、ガンディーの弟子ながら、まったくイギリス寄りの考え方をしていました。イギリスの焦土作戦を支持し、抗日ゲリラ戦の呼びかけまで行いました。さすがにこれは国民会議派内部からも抗議の声があがりました。
__________
ゲリラ戦などを語ることによって我々は中立の札を捨て、戦争に飛びこんでいくことになるのです。もし我々がガンディーの指導を採用すれば、日本は我々を攻撃さえしないかもしれないと私は思っています。日本の中国に対する戦争を除けば、我々は日本にたいして何の敵愾心も持っていないのですから。
(ネルーの裏と表)
後に初代インド首相となるジャワハルラール・ネルーは、ガンディーの弟子ながら、まったくイギリス寄りの考え方をしていました。イギリスの焦土作戦を支持し、抗日ゲリラ戦の呼びかけまで行いました。さすがにこれは国民会議派内部からも抗議の声があがりました。
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ゲリラ戦などを語ることによって我々は中立の札を捨て、戦争に飛びこんでいくことになるのです。もし我々がガンディーの指導を採用すれば、日本は我々を攻撃さえしないかもしれないと私は思っています。日本の中国に対する戦争を除けば、我々は日本にたいして何の敵愾心も持っていないのですから。
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ネルーはさらに「もし日本がインド人裏切り者の軍隊(注:ボースとインド国民軍)を使っているなら、彼らにたいしても抵抗しなければならない」とまで言っています。
イギリスから見れば、まことに好ましい存在でした。しかし、こういう極端な意見には支持は集まらず、ネルーはガンディーの路線に妥協せざるを得ませんでした。
戦後、インド国民軍の裁判が始まろうとすると、ネルーは一転して、弁護団にまで加わり、「反乱はインドの義務であり、もし自らを解放するために革命を行なう用意のない民族があるならば、それは死んだ民族である」と述べました。どうもネルーは表と裏を使い分ける、風見鶏のような人物だったのではないか、と思われます。
(インド国民軍裁判へのインド民衆の怒り)
裁判では、藤原中佐がインド国民軍創設の事情について陳述し、英印軍捕虜の国民軍参加はあくまで個人の自由意志によるもので、決して強制されたのではないことを強調しました。
また片倉少将は、インド国民軍はインパール作戦の際に、日本軍の組織内に繰り入れられたのではなく、独立した軍隊として別個の正面を担当し、全く対等独立の存在であったことを述べました。
こうした証言は、インド全土のマスコミに報道され、ボースとインド国民軍が日本軍の傀儡(かいらい:手先となって思いのままに使われるもの)ではなく、インド独立のために戦った愛国者であったことを国民に印象づけました。インド民衆の裁判に対する抗議行動はさらに過激化しました。
首都デリーはデモの波で覆い尽くされ、押し寄せる何万もの群衆の叫びが裁判所内部まで聞こえてきました。カルカッタ、ボンベイ、カラチなどの主要都市は騒乱状態になりました。とどめとなったのは、全インド海軍のインド人水兵がイギリスに反旗を翻したことでした。水兵たちは「インド国民軍海軍」と名乗って、ほとんどの艦艇と海軍施設を乗っ取り、英国旗を引きずり降ろしました。
イギリスがインド支配を続けようとすれば、大規模な本国軍と官僚群を送り込み、民生安定のための莫大な経済援助もする必要がありました。第二次大戦で疲弊したイギリスには、その力は残っていません。アトリー英首相は、インドに自治権を与え、将来の憲法制定も、英連邦に留まるかどうかの選択も、インド国民の自由意志に任せるとの声明を発表しました。
(ボースが復活する日)
こうしてインドは独立を達成し、ネルーが初代の首相となりました。『革命家チャンドラ・ボース』の著者・稲垣武氏は次のように述べています。
__________
ネルーら会議派主流は大戦直後の四五~四六年の独立運動高揚期にはボースと国民軍の業績を評価し、それへの民衆の感動を運動のテコに利用したが、独立達成後はなるべく無視しようとした。 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
ネルーはさらに「もし日本がインド人裏切り者の軍隊(注:ボースとインド国民軍)を使っているなら、彼らにたいしても抵抗しなければならない」とまで言っています。
イギリスから見れば、まことに好ましい存在でした。しかし、こういう極端な意見には支持は集まらず、ネルーはガンディーの路線に妥協せざるを得ませんでした。
戦後、インド国民軍の裁判が始まろうとすると、ネルーは一転して、弁護団にまで加わり、「反乱はインドの義務であり、もし自らを解放するために革命を行なう用意のない民族があるならば、それは死んだ民族である」と述べました。どうもネルーは表と裏を使い分ける、風見鶏のような人物だったのではないか、と思われます。
(インド国民軍裁判へのインド民衆の怒り)
裁判では、藤原中佐がインド国民軍創設の事情について陳述し、英印軍捕虜の国民軍参加はあくまで個人の自由意志によるもので、決して強制されたのではないことを強調しました。
また片倉少将は、インド国民軍はインパール作戦の際に、日本軍の組織内に繰り入れられたのではなく、独立した軍隊として別個の正面を担当し、全く対等独立の存在であったことを述べました。
こうした証言は、インド全土のマスコミに報道され、ボースとインド国民軍が日本軍の傀儡(かいらい:手先となって思いのままに使われるもの)ではなく、インド独立のために戦った愛国者であったことを国民に印象づけました。インド民衆の裁判に対する抗議行動はさらに過激化しました。
首都デリーはデモの波で覆い尽くされ、押し寄せる何万もの群衆の叫びが裁判所内部まで聞こえてきました。カルカッタ、ボンベイ、カラチなどの主要都市は騒乱状態になりました。とどめとなったのは、全インド海軍のインド人水兵がイギリスに反旗を翻したことでした。水兵たちは「インド国民軍海軍」と名乗って、ほとんどの艦艇と海軍施設を乗っ取り、英国旗を引きずり降ろしました。
イギリスがインド支配を続けようとすれば、大規模な本国軍と官僚群を送り込み、民生安定のための莫大な経済援助もする必要がありました。第二次大戦で疲弊したイギリスには、その力は残っていません。アトリー英首相は、インドに自治権を与え、将来の憲法制定も、英連邦に留まるかどうかの選択も、インド国民の自由意志に任せるとの声明を発表しました。
(ボースが復活する日)
こうしてインドは独立を達成し、ネルーが初代の首相となりました。『革命家チャンドラ・ボース』の著者・稲垣武氏は次のように述べています。
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ネルーら会議派主流は大戦直後の四五~四六年の独立運動高揚期にはボースと国民軍の業績を評価し、それへの民衆の感動を運動のテコに利用したが、独立達成後はなるべく無視しようとした。 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
ボースは、事故死の後、東京・杉並の蓮光寺に埋葬されました。インド政府が連合国への聞こえを慮(おもんばか)ってか、遺骨の引き取りをためらったのです。
ネルー首相は1957(昭和32)年10月に来日した際、蓮光寺を訪れ、ボースの冥福を祈りました。「この遺骨はインド国家のものであり、いずれは引き取らねばならないが、それまではよろしくお願いする」と言い残して辞去しました。
日本ではボースにゆかりのあった人達が、8月18日の命日に毎年、盛大な慰霊祭を催すようになりました。これらの人々は何度か正式な外交ルートでインド政府に遺骨引き取りを打診しましたが、反応はありませんでした。
ボースの遺骨が母国に帰れなかったのは、当時の国民会議派としてボースとインド国民軍が独立の原動力として脚光を浴びては面白くないこと。さらにボースはまだどこかで生きている、という伝説が民衆の間で広く信じられていたからでしょう。
それでも、ボースはインド人の歴史観の中で蘇りつつあるようです。インドの国会議事堂の中央大ホールにはガンディー、ネルーらの肖像画のみが掲げられていましたが、1978年にはボースの肖像画もそれらに並びました。デリーの、かつてはイギリス国王でインド皇帝だったジョージ5世の銅像があった跡には、インド国民軍を率いるボースの銅像が建っています。
ネルー首相は1957(昭和32)年10月に来日した際、蓮光寺を訪れ、ボースの冥福を祈りました。「この遺骨はインド国家のものであり、いずれは引き取らねばならないが、それまではよろしくお願いする」と言い残して辞去しました。
日本ではボースにゆかりのあった人達が、8月18日の命日に毎年、盛大な慰霊祭を催すようになりました。これらの人々は何度か正式な外交ルートでインド政府に遺骨引き取りを打診しましたが、反応はありませんでした。
ボースの遺骨が母国に帰れなかったのは、当時の国民会議派としてボースとインド国民軍が独立の原動力として脚光を浴びては面白くないこと。さらにボースはまだどこかで生きている、という伝説が民衆の間で広く信じられていたからでしょう。
それでも、ボースはインド人の歴史観の中で蘇りつつあるようです。インドの国会議事堂の中央大ホールにはガンディー、ネルーらの肖像画のみが掲げられていましたが、1978年にはボースの肖像画もそれらに並びました。デリーの、かつてはイギリス国王でインド皇帝だったジョージ5世の銅像があった跡には、インド国民軍を率いるボースの銅像が建っています。
ボースとインド国民軍がインド建国の物語で正当な地位を得たときには、多くの犠牲を払いながらも共に戦った日本の貢献も再確認されていくでしょう。それは日本とインドの新たな絆になるはずです。そして、その時にこそインパール作戦に倒れた日本陸軍の英霊たちも報われるのです。
(文責:「国際派日本人養成講座」編集長・伊勢雅臣)
(文責:「国際派日本人養成講座」編集長・伊勢雅臣)
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