小早川秀秋という戦国武将をご存知だろうか。関ヶ原の合戦(1600年9月)で一躍名をはせた、あの小早川秀秋である。戦国時代に興味のある人なら、正装で威儀を正す彼の肖像画をご覧になったこともあろう。
何故か、その姿からは青年武将の覇気は毫も感じ取れないのだ。細面の青白い顔、自信なげな伏し目・・・・・なかでも特徴的なのが、その小さな両手だ。体を大きく見せるため、実際以上に手足を小さく描くのは当時の慣わしとはいえ、あまりにも小さすぎる。関ケ原では、この小さな手に握られた軍扇が、日本史上最大の裏切り劇を演出することになった。
秀秋は豊臣秀吉の正室、北政所(ねね)の甥にあたる。そんな関係で幼少期に秀吉の養子となり、十一歳の時に秀吉の命で毛利一門の小早川(隆景)家に養嗣子として入る。隆景の跡を継いだのは十四歳、関ケ原の合戦のときは十九歳だった。関ケ原の合戦ではおばの北政所から西軍に味方するように懇願され、一万五千の大軍を率いて出陣している。
九月十五日、天下の覇権をかけ、美濃(岐阜)関ケ原に徳川家康の東軍七万四千と石田三成の西軍八万四千が向かい合った。数の上では西軍が勝っていた。しかも、いち早く西軍は関ケ原を取り囲む山々に布陣しており、陣形から言っても優位は動かなかった。小早川隊はといえば、西軍の最右翼で松尾山に布陣していた。
午前八時ころ、合戦の火ぶたは切って落とされた。天地をどよもす大喚声のなか、激しく入り乱れる両軍。一進一退の攻防が続く。そのうち味方の不利を感じ取った三成は、まだ合戦に参加せずに静観している小早川隊に加勢を求めた。
ところが、秀秋は動かない。というのは事前に家康からも誘いがあり、ここに至っては東西のどちらにつくかで迷いに迷っていたからだ。
今や、一万五千の大軍を擁する秀秋はこの日の勝敗の鍵を握らされていた。この何とも頼りなげな若者の号令一つで日本の将来が大きく変わろうとしている瞬間だった。焦る三成。それは家康とて同じであった。
正午過ぎ、業を煮やした家康は松尾山に向かって鉄砲を撃ち込ませる。恫喝によって優柔不断な秀秋に腹をくくらせる狙いだった。下手をすれば、こちらに牙をむいてくる危険性をはらんでいたが、家康は秀秋の気の弱さに賭けた。
この作戦はまんまと的中する。驚いた秀秋は全軍に号令し、ころげるように山を駆け下った。そして、眼下に布陣していた味方である西軍の大友吉継隊を側面から急襲する。日本史最大の大舞台で、十九歳の若者が引き起こした前代未聞の裏切り劇はこうして始まった。
この小早川隊の寝返りを見て、西軍の中に後続する隊が次々に現れた。寝返りの連鎖反応である。一時間後には大勢が決し、午後三時ごろまでに西軍の兵は関ケ原に見られなくなっていた。終わってみれば東軍の完勝であった。秀秋はこの関ケ原の功により備前(岡山県)など五十万石に封ぜられる。
その秀秋も、二年後に二十一歳の若さで急死する。関ケ原後、「日本一の裏切り者」呼ばわりされて酒浸りの日々を送っていたらしく、その酒毒が祟ったものとされている。まるで家康に天下を取らせるためだけに、天がこの世に生を与えたかのようなあっけない幕引きぶりだった。
歴史にifはないというのが鉄則だが、それにしても、秀秋が寝返ることなく西軍の一員として戦っていれば、彼自身の、そして日本の運命は、どう変わっていただろうかと・・・・・それはやはり愚問なのだ。
はじめから秀秋が東軍に入っていたら、東軍八万九千、西軍六万九千となり、計算高い三成は戦っていなかったと思われる。機を逸することなく新しい時代を迎えるための大峠であったのです。
三成の統率力のなさ、家康の読みの深さ、度量の大きさを考えれば、秀秋の弱さを武器に日本の神々も家康に加担したのではないかと感じるのです。
---owari---
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます