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神速の「中国大返し」が開いた天下の道!

2018年09月28日 | 歴史

豊臣秀吉はだれもが認める幸運児だ。しかし見方を変えれば、能力至上主義の主君、織田信長の引き立てがあったればこそである。もしも秀吉が、武田信玄や徳川家康の家来であったなら、これほどの栄達は望めなかったはずだ。その意味では秀吉にとって信長は最高のパトロン(後援者)だったわけだ。

             

今から436年前の158262日早朝、その最高のパトロンに予期せぬ不幸が襲った。「本能寺の変」である。側近の明智光秀の反逆に遭い、49年の波乱の生涯を閉じるのである。この時、秀吉は毛利攻めのため備中(岡山県)にいた。秀吉は主君の悲報に接するや、ただちに高松城を引き払い、中国路をひた走り京都へ急行した。

 

秀吉軍のあまりの迅速ぶりに驚きあわてる明智軍は、態勢が整わないまま、「山崎の合戦」に臨んで敗退し、光秀はあえない最期を遂げる。これが、秀吉を天下人に押し上げる転機となった「中国大返し」だ。

 

信長の死が秀吉にもたらされたのは、事件翌日の3日深夜。一時は茫然自失とした秀吉であったが、この時、傍らにいた軍師の黒田官兵衛が、そんな秀吉を現実世界に引き戻す運命の一言を放った。

 

このリアリストの軍師は「おめでとうござる。これで御運が開けましょう」と秀吉にささやいたという。

 

この一言で立ち直った秀吉は「主君の仇を討ち、天下を取るのは自分しかいない」と自らに言い聞かせ、すぐに行動に移った。

 

信長の死を秘して毛利軍と交渉し講和を結ぶや、25千の全軍をまとめて中国路を駆けたのである。このがむしゃらこそが微賤(びせん)の身から立身出世を重ねてきた秀吉の真骨頂「神速の中国大返し」と、後に秀吉が自画自賛したように、まさに猛スピードであった。

 

高松城を出発したのが、6日午前2時。8日朝には姫路に到着する。高松―姫路間は約70キロ。つまり1日に35キロを走破したわけだ。

 

35キロという距離は、ちょうど山手線一周に相当する。戦時下の重装備で、しかも折からの暴風雨をついてのこの行軍は驚異的だ。姫路城に入った時は全員ずぶぬれの泥まみれであったという。

 

姫路城で一泊した秀吉軍は9日早朝になって、再び中国路を駆けた。明石、兵庫と走り抜け、11日の午前8時ごろになって尼崎に着陣。そこで作戦をめぐらし部署を決め、光秀との「山崎の合戦」(13日)に臨むわけである。

 

姫路―尼崎間の80キロを2昼夜で移動したことになる。1日に40キロと、走行ペースはさらに上がっている。旧陸軍の教範によると130キロを超える移動を強行軍と定めている。その数字を基にすれば、驚くべき強行軍だったのだ。

 

柴田勝家は北陸遠征中であり、徳川家康は小勢を引き連れての大阪・堺見物、そして秀吉ははるか備中にいた。つまり、光秀にとって当面のライバルが身近にいないこの時こそ、天下を取るチャンスだったのだ。しかし、その夢も秀吉軍の神業とも思えるUターンを前に、あえなく破れたのである。

 

---owari---

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