今回のシリーズは、伊達政宗についてお伝えします。
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十一歳の秀頼と七歳の千姫の婚礼まで、あれほど急いだ家康である。当然、忠輝(家康の六男)と五郎八姫(いろはひめ:政宗の長女)の婚礼ももっと急いでよいはずであった。
しかし、それが、慶長十一年の十二月まで延びた理由の中には、双方の父親の貪婪(どんらん:たいそう欲の深いこと)なまでに仕事に打ち込む野望と根性が大きく影響した結果であったといってよい。
政宗の海外雄飛策は、いうまでもなく家康の外交政策と表裏一体をなす形ですすめられる。しかし、これが、ほんとうの意味の一体であったかどうかとなると、はなはだ疑わしい。
性格的にいって、どちらも強烈な個性と自負心を持っている。簡単にいえば、家康の方では、どこまでも年少の政宗を見どころのある奴として使いこなしてゆくつもりであり、政宗の方でもまた、喰えないオヤジながら学ぶべきところはある。こんなオヤジの一人ぐらい使いこなせないでどうするものか、という感情は捨てきれない。
おそらく、尊敬すべき何ほどかの進歩性がないと見たら、政宗は家康を、
「とうとう、もうろくしおったわい」
さっさと無視してゆくであろうし、家康の方でも、
「やっぱり井の中の蛙であったか」
さらりと捨ててかえりみまい。
この一見冷淡な交わりが、実は、人間世界の進歩に通ずる最も好ましい競合ともいえるのだが…。その自信満々の政宗が、家康の第二の出発、すなわち泰平時代への歩み出しの規模を知って、武者震いをしだしたのだから、すでに動かぬものになっている五郎八姫の婚礼など、少しぐらいは延びるはずであった。
とにかく、家康も上機嫌で、江戸の中屋敷を追加してくれたり、久喜(埼玉県)に政宗専用の鷹場(たかば)をわけたりして、政宗との間を密接にしながら隠居準備にかかっていた。
(『歴史小説浪漫』作家・童門冬二より抜粋)
---owari---
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