二宮尊徳がつくった五常講は、世界最古の信用組合というべきものだった。これは二宮尊徳の独特の考え方から生まれたもので、1820年に始められている。
小さなお金を人々から出資してもらい必要な人に貸し付けるという、現在の信用金庫に極めて似たシステムであった。
まだ近代化の進んでいない封建時代に、資本の運用システムをつくり出すところに、二宮尊徳のユニークさがある。元来、元手の資本を団体で集めて生産活動に活用させようという発想は、資本主義的経済の高度な発展がなければ出てこない。
ヨーロッパで最初の信用組合ができたのは、ドイツの地方都市で、二宮尊徳の五常講に遅れること42年。イギリスの産業革命から100年近く経ってからのことである。
ところが二宮尊徳は、産業化が始まるはるか以前の日本で、零細農民の生産活動の向上を目的に、農民のほか商人、町民、そして武士にもお金を貸し付け、収益を農民ら出資者に還元するという大胆な方策を実践していた。小規模とはいえ、洗練された資金運用システムの登場である。
一般に二宮尊徳といえば「薪を背負いながら読書する銅像」が有名で、勤勉の大切さを説く格好の教訓として知られている。しかし、単に勤勉を説いた人というわけではない。働いて得たお金を有効に回転させて豊かな生活を実践しよう、という考えの持ち主だった。そのためには勤勉に働くことが大事だ、としたのである。五常講はそうした発想から生まれた。
尊徳の指導によってこの五常講は各地に広がる。農民らは無利子、または低金利でお金を融通してもらい、そのお金で農器具や肥料を購入し、生産性を高めた。尊徳が行った代表的な農村復興計画のなかに、栃木・桜町の成功があるが、そのほかにも諸国の藩から、依頼が殺到した。今日で言う、超売れっ子の経営コンサルタントだったわけだ。
農業の生産現場で、こうした資本の論理を導入したことは、農業の発展に貢献しただけでなく、明治維新以降に起こる工業化の礎を築いたとみることもできる。事実、後に二宮尊徳の弟子たちは全国に「報徳社」という組織をつくり、五常講のシステムを運営し始める。
なかでも、近代日本の最初の信用組合といわれる掛川信用組合(現掛川信用金庫)は、尊徳の高弟、岡田良一郎が1874年に設立したものだった。
二宮尊徳が亡くなったのは1856年(享年70歳)。江戸時代の終焉が具体的にまだ見えていない時代に人生を終える。だが、二宮尊徳の偉業は、世界的な見地からしても、その後の金融社会の到来を予見していたかのような、先進的なものだったのである。
---owari---
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