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上杉鷹山(ようざん)の藩主としての心構えが、ケネディーに届く

2018年02月09日 | 歴史

上杉鷹山公と言えば、家臣に「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」という歌を教訓として詠み与えたという話は有名です。

 

鷹山公は江戸時代中期の大名で、出羽国米沢藩9代藩主です。領地返上寸前の米沢藩再生のきっかけを作り、江戸時代屈指の名君として知られている。

 

ケネディ元アメリカ大統領が自身の第35代アメリカ大統領就任時の記者会見で、「日本人で最も尊敬する人物は?」と問われ、「上杉鷹山公」と応えたというエピソードがあります。

鷹山公は質素倹約を奨励、身分を問わず学問を奨励し、産業を振興し、米沢藩再生の陣頭指揮を執り、藩の財政の健全化を目指した優しき名君でもあったのです。

 

天明5年(178523日、鷹山は隠居の願書を出し、鷹山と世子(せいし)である治広は、江戸城に入り、鷹山は隠居を許され、冶広は家督相続を正式に許された。このとき、鷹山は35歳であった。在職19年である。

 

そして、鷹山は治広に米沢藩主としての心得三力条を与えている。

それは、

 一 国家は先祖より子孫に伝え候国家にして、我、私すべきものには之無く候

[国()は先祖から子孫へ伝えられるものであり、藩主の私物ではない]

 

 一 人民は、国家に属したる人民にして、我、私すべきものには之無く候

[領民は国()に属しているものであり、藩主の私物ではない]

 

 一 国家、人民のために立たる君にて、君のために立たる国家、人民には之無く候

[国()・国民(領民)のために存在し行動するのが君主であり、君主のために存在し行動するのは国・国民ではない]

 

右三条、御遺念あるまじく候事

[この三か条を忘れることなく心に留めおくように]

天明五巳年二月七日 治憲

治広殿 机前

 

というもので、世間はこれを、「伝国の辞」と呼んでいる。この伝国の辞は、米沢藩主が交代するたびに引き継がれた。

 

この心得には、鷹山の思想がはっきり現われている。つまり、当時の封建幕藩体制下では、藩主はそこの領民を私し、単なる税源としてしか考えていなかった。領民の人格を全く無視していたのである。

 

しかし鷹山はそうは考えなかった。ここで国家というのは藩のことである。藩は藩主の私物ではないということと、藩の民すなわち領民はこれも私物ではないということである。つまり、領民は藩という当時の自治体に属しているものであって、たまたまそこに遭遇した藩主や藩士たちの私的税源では全くない、ということを鷹山は宣言したのである。

 

だから、藩主というのは、その国家と人民のための仕事をするために存在するのであって、国家や人民は、藩主のために存在しているのではない、と明確に言い切った。

 

これは、今から215年も前に言った封建領主の言葉とは、とても思えない。後の民主主義政治をおこなう政治家たちでも、ここまではっきり自分の立場を認識して、天下に明言した人は少ない。また明言しても、その通り実行する政治家は更に少ない。

 

ケネディ元大統領が、鷹山を、「私の尊敬する日本人」としてあげた理由も、このへんにあるのではないだろうか。

 

もうひとつは、この考えはあきらかに藩機関説である。藩は人民の合意を実行するための機関だということを明言している。およそ200年も前に、こういう民主主義的な考え方を表明したことは、徳川幕藩体制下では稀有のことであって、また、鷹山の思想がどれほど思い切ったものであったかを示している。

 

まだ近代民主主義が発達しているわけでもなく、鷹山がまたそんなことを知るわけもない。あくまでも鷹山の独創であった。鷹山は、「藩主も人民に奉仕するものである」という主権在民説をすでに学び取っていたのである。

 

これは、企業において、「顧客こそ主人であって、企業員はこの顧客に奉仕するものである。なぜならば、企業員の生括費は、顧客から与えられるものだからである」ということにも通じるのではないだろうか。

 

---owari---

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