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自由からの「未来創造」(後編)

2020年09月05日 | 政治・経済
(「宗教的なもの」を考慮した上での法学・政治学を)
いずれにしても、「言論の自由」等は、「信教の自由」と相まって非常に重要なものなので、「抑圧」や「差し止め」などは極力控えたほうがよいと私は思います。

たとえ、大国であっても、そういうことが行われているところでは、事実上、国民に「発言の自由」や「思想・信条の自由」は保障されていません。

そうした自由はできるだけあったほうがよいわけですが、その基(もとい)には、人間の持つ道徳律、カント的に言うならば、「ほかの人がまねをしてもよいことを、なしなさい」というような格率(かくりつ:自分の持つ行為規則)があるべきです。

やはり、社会の全員とは言わないまでも、リーダー層に位置する、もしくは、値するような人たちには必要でしょう。「自分たちがなすことを、ほかの人たちがまねをしてもよい」というような行動をリーダー層が取れる国家をつくっていかねばなりません。

実際に、富裕層や、政治的に特別な地位を持っているような人たちが、海外に資産を逃がしたり、あるいは、海外で子孫をつくるとか、海外に別荘を持つとかして、いつでも逃げ出せるような準備をしたりしているわけです。しかし、こういう国家は、よい国家ではないでしょう。

やはり、良心に基づいて行動し、その行動をほかの人がまねてもよいような社会をつくっていきたいと思いますし、そうしたことが、自由な判断のなかで、おのずと行われるような未来社会をつくっていくことこそ、大事なことではないでしょうか。

「未来創造」は、その方向でなされていくべきであると思います。

そういう意味で、「政治の哲学」、あるいは「法律の哲学」「法哲学」の根本において、「人間を、自由の状態に置いた場合、立場が上に上がっていけばいくほど、人間的に立派になる。そして、その人がやることを、ほかの人がまねをしても社会がよくなる」という観点が大事であり、そういう方向に導かれている社会がつくられていくことがよいでしょう。

法律や政治制度も、その方向で運営されていかねばなりませんし、税制、あるいは、立法も含めて、そのように考えていくことが望ましいと思います。

そうした方向性を一定の視点として持ちながら、新しい法律の作成や、政治の判断、行政行動等をなさねばならないのではないでしょうか。

「法治国家におけるあらゆる行動に関して、もう一段高い道徳律、根源的なる考え方から入っていくことが望ましい未来であるのではないか」と述べておきます。

その意味において、宗教的なるものを考慮した上での法律学や政治学、あるいは、国際関係学、外交学等がつくられていくことも大事だと考えます。それが「未来創造学」です。

未来の政治は自由からの繁栄を保障するものでなくてはなるまい。伸び伸びとした個人の活躍が、国を豊かにしつつも、社会の道徳律を高めるものでなくてはなるまい。

間違っても、侵略的で独裁的な、専制国家を創ってはなるまい。宗教が一定のモラルの基礎を形づくりつつ、言論・表現・出版・結社の自由が認められなくてはなるまい。結果の平等を求めるのではなくチャンスの平等を保障し、失敗の自由を認めつつも、失敗から立ち直る自由がある社会が望ましい。

政府は放置すると自己増殖し、大きな政府化し、増税を当然としていくようになるので、国際競争力を落とさない努力が必要だ。自国民が多数、外国への移住を望む国家は悪い国家で、各国から留学や移住を求めてくる人々が多数出てくる国家が現代の「パラダイス」なのだ。

---owari---
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