1561年9月10日、「関ケ原の合戦」と並んで千年先にも語り継がれるであろう激戦がこの日、現在の長野県南部で繰り広げられた。甲斐の虎・武田信玄と越後の龍・上杉謙信ががっぷり四つに組んで戦った「川中島の戦い」である。
この時、信玄41歳、謙信32歳、全盛期の石高(こくだか)は信玄120万石、謙信100万石。ともに金鉱山を持ち、財力は豊か。戦力面でも、戦国最強を競い合うほど甲軍と越軍は拮抗していた。
『孫子』の兵法を説いた「風林火山」を旗印とする信玄、一方、源義経を師と仰ぎ迅速さと機動性を重視する謙信。まさに、戦国期を代表する大大名同士であり、いずれどちらかが都に上り、天下に覇を唱えると見られていた。
両軍は国境の川中島を舞台に、11年間で計5回も戦いを交えている。実力者同士がこれほど何度も戦った例は戦国期にもない。5回とも、痛み分けで終わっている。なかでも、この日行われた4回目の合戦は、両軍合わせて8000人近い死者を出すなど、かつてない激戦となった。
川中島は千曲川と犀川(さいがわ)とが合流して形成する三角地帯の盆地で、街道が交わる要衝の地(交通・軍事・通商の上で、大切な地点)。甲軍、越軍ともに相手の侵略を阻むには絶好の場所であった。
この年の8月14日、まず謙信が動いた。13,000の兵を率いて春日山城(上越市)を発ち、北信濃を目指す。善光寺に到着すると、そこに兵站(へいたん)部隊(後方支援)として5,000の兵を残し、8,000の主力と共に川中島南部の妻女山(さいじょさん)に登る。
この時の謙信の布陣を見て、百戦錬磨の信玄が驚いた。越軍は敵である南の甲斐を背に、自分の国と向き合う形で布陣したのだ。あたかも北国街道を北上中だった信玄はそこに謙信の並々ならぬ決意を読み取った。
信玄は、自ら虎穴に入った謙信の潔さにこたえようとしたのか、それとも秘策があってのことか、2万の大軍をう回させて川中島に入り、越軍と向かい合った。つまり、両軍とも相手後方部隊の攻撃を百も承知のうえで、互いの退路を断つという「必戦必勝」の構えに入ったのである。
ピーンと張り詰めた緊迫状態は永遠に続くのかと思われた。その均衡を破るべく、最初に仕掛けたのは信玄の方だった。9月9日夜、兵を二手に分け、別動隊12,000を妻女山の裏手に回らせたのだ。越軍を後方から追い立て、逃げてきたところを正面から一挙に叩いて殲滅(せんめつ)する計画だった。
名付けて「啄木鳥(きつつき)戦法」。啄木鳥が朽ち木内部の虫を捕る際、むやみに穴にくちばしを突っ込むようなことはせず、まず穴の後ろ側をくちばしで叩くという。その音に驚いて穴から飛び出たところを捕らえるのである。この啄木鳥のやりかたを真似た戦法であった。
ところが、謙信もさるもの、甲軍の動きにただならぬ気配を感じ取り、啄木鳥戦法を看破してしまうのである。深夜になるのを待って、山を降りた越軍は。濃霧の中を粛々と川を渡り、信玄本陣に迫ったのである。
続きは後編へ
---owari---
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