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元寇を退けた!玄界灘に吹き荒れる勝利の“神風”(後編)

2018年08月03日 | 歴史

日没ごろから強まった風雨は夜になって一段と激しさを増した。博多湾に浮かぶ元軍の船は波をかぶり、あるいは隣船や岸壁にぶつかり、次々と海中へ消えていった。翌朝、海上に船がすっかり無くなっているのを見て、日本側の武士や土地の人がたいへん驚いたと記録されている。

 

旧暦1020日は現行歴の1126日にあたる。したがって、台風とは言えない。現在でもこの地方に時折吹く雨まじりの季節風と見られている。

 

その程度で難破してしまったのは、ひとえに元軍の船がお粗末だったからだ。元が高麗人に強制的に、しかも短期間で建造させた船だったため、強度の点で著しく問題があったのだろう。

 

この文永の役における元軍の死者は13千を超えた。ほうほうの体で高麗の合浦に帰った船は、900艘のうち十数艘にすぎなかったという。

 

7年後、元軍は再び来襲した。弘安の役である。4万の東路軍と10万の江南軍が二手に分かれ、朝鮮と中国江南から日本に向った。フビライは前回の5倍もの兵力を差し向けたのである。

 

しかし、今回は日本の応戦体制は万全だった。幕府は博多湾沿岸を中心に数百キロにわたる石塁(いしるい)を築かせ、警護の兵も配備して侵略に備えていたのである。

 

65日、まず東路軍が博多湾に入った。待機していた日本軍は小舟を利用して奇襲戦を敢行。これが予想以上の戦果を上げた。さらに元軍側の船中に疫病が発生したこともあって、東路軍は半月足らずの戦闘の後に博多湾を撤退して長崎・平戸に移った。

 

そこで、遅れて東シナ海を渡ってきた江南軍と合流。大挙して博多に攻め込もうとしていた矢先、再び神風が吹いた。730日から81日にかけ九州北部沿岸を襲った台風により、元軍は壊滅的な被害を受ける。急ごしらえの粗悪船は荒れ狂う大波に奔走され、兵もろとも海の藻屑と消えていった。

 

やっと陸に這い上がってきた兵士も、待ち構えていた日本軍によって捕らえられてしまう。最終的に14万の大軍はその四分の三を失うに至るのである。

 

文永の役といい弘安の役といい、二度ともあまりにタイミングよく嵐は到来した。まさに、神風である。もしも、神風が吹かなかったなら、一体、その後の日本はどうなっていただろう。圧倒的な戦力を誇る元軍によって国土を蹂躙(じゅうりん)されるのはまず間違いない。

 

そうなると、抵抗運動が起こり、国土はいよいよ乱れたはずだ。太平洋戦争でミソを付けたとは言え、奇跡の神風はまさに日本の未来を救ったのである。

 

---owari---

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