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忠臣蔵はなぜ日本人に愛されるのか?

2016年02月17日 | 歴史

「忠臣蔵」には時代を超えて日本人の胸を打つ不朽不滅のドラマがあり、日本人が美徳とする心の美学がこめられている。

 

権力による不公平を堂々と糾弾して、目的を成し遂げた赤穂浪士の仇討ちは、いつの世の庶民にとっても壮快なものである。

 

また同時に、そこには一つの尊い使命のために己の全存在を捧げようという自己犠牲の精神が貫かれている。そこに人々は感動するのだろう。(テレビ東京「忠臣蔵」HPより)

 

現代でも、なお日本人の心に感動を与えてくれるのが、「忠臣蔵」だと思っています。

 

昨年10月、元職場の仲間とともに、観光のため赤穂市を訪れた。歴代赤穂藩主の菩提寺である花岳寺や討ち入りをした大石内蔵助ら赤穂浪士を祀る大石神社など、赤穂市観光協会の専属ボランティアガイドさんの案内で分かりやすく説明していただいた。

 

大石神社に隣接して、大石内蔵助の一家三代が五十七年にわたり住んでいた屋敷があり、そこに長屋門という屋敷の正門があります。

 

この長屋門は、江戸城松の廊下での刃傷事件勃発を知らせる早水藤左衛門と萱野三平が早馬でかけ参じ、叩いたのもこの門です。古くて小さく見える門ですが、それだけにリアリティーがあり、早水藤左衛門と萱野三平の息遣いと、転げ落ちんばかりにたどり着いた二人の姿が見えるような気がしたことを思い出しました。

 

私たちはその旅行で、赤穂御崎のとあるホテルに泊まりました。

そのホテルから見える瀬戸内海は絶景でした。ちょうど夕暮れ時で、海に浮かぶ島々と行きかう船が夕日に照らされて素晴らしい光景を映し出していました。

 

赤穂城も海の近くにあり、四季ときどきに変わる美しい景色を見ながら、藩士は登城していたのだと思いました。片田舎ではありますが、荒々しい海の姿も知っており、時来たるならば、立ち上がる雄姿を藩士たちは秘めていたのではないかと、勝手ながら思った次第です。

 

このような簡素な街に、天下を揺るがす大事件を起こすエネルギーがあったとは、思えないほどの静かさでした。

 

さて、表題のように「忠臣蔵はなぜ日本人に愛されるのか?」というテーマでまとめようとしたのですが、調べれば調べるほど、人気が下火になっているように感じたのです。

 

特に、40歳以下の若い人の忠臣蔵に関するコメントは以下のような意見が多かったのです。

①    「忠臣蔵」は吉良上野介の首を取る物語である。最後は,赤穂浪士全員が切腹する。そこに暗さや残酷さを感じる。

②    お上への反抗心が当時の庶民の熱烈な指示を得て広まり、また、その後の社会では忠誠心といった概念を世間に植え付けるために逆に利用したのではないでしょうか?

③    この事件に関しては、喧嘩両成敗にならなかった処罰が間違っているとして吉良を討ったことは正しい、とされていますが、そもそも“城中では何があろうと絶対に刀を抜いてはいけない”という大原則があります。刀を抜いたということで浅野は切腹であり、刀を抜いていない吉良は無罪なのです。したがって、当時の処罰の判断は間違っていないのです。

④    この事件を現代に当てはめるならば、鬱病で精神不安定だった若者が、ある日会社内で突然キレてしまい、近くにいた年配の上司に刃物で切り付けた、という事件であり、後日逆恨みしたこの若者の回りの連中が、集団で年配の上司宅を深夜襲撃したというテロ行為にすぎないので、赤穂浪士達の行動は反社会的なものかと思います。

⑤    結局は主君の仇討ちという大義名分に酔いしれた行き場の無い人達の集団なのだと思います。

⑥    僕はどうしてもこれがイイ話だと思えない。気がふれたとしか思えない前トップの資質を疑う事もしないで一年以上ぐだぐだ結論を引き伸ばし(途中女遊び含む)精神論/根性論をこねまわしたあげく、結局奇襲突撃して可哀想な老人をリンチして最後は全員切腹。ブラック企業にも通ずるヤンキーさ、全うできなさ。正直どのポイントで感動すればいいのかわからない。

⑦    その当時、守るべきとされていた美徳を完全に貫いた。その気持ちの「強さ」が好まれたのではないでしょうか。

⑧    日本の物語だと、信念を貫く人物は敵味方を問わず格好良く描かれるのも似たような理由と思います。

 

さて、みなさんはどのように感じられたでしょうか。

赤穂浪士のみなさんは、この若い人の意見を聞いて、天界でさぞかしお嘆きのことと思います。

 

もう、300年以上経過しているので、価値観もかわりそのようなご意見も致し方ないと思っておられるでしょうか。

 

討ち入り当時の江戸の幕府や庶民は、どのように評価していたのでしょうか?

 

将軍・徳川綱吉は、大石らが作成した討ち入り口上書を読み、彼らの行動を忠義であると褒めた。

老中の阿部正武も、討ち入りを忠義の行動と見て褒めているのです。同じく老中の小笠原長重は、「赤穂浪士の行為は武士道にふさわしいものであり、真実の忠義であるから永預かりの処分にしたい」と、浪士らの助命を希望していたのです。

 

一方、庶民では赤穂浪士討ち入りが大ニュースとなり、彼らは一躍ヒーローとなって話題を独占したのでした。ある商人は手紙に「江戸中の手柄」と書き記していたのです。

 

このように、討ち入り直後は幕府、庶民共に討ち入りを忠義の行動と褒め称える声が圧倒的に多かったのです。

 

幕府の命により、内蔵助はじめ赤穂浪士17人のお預かりを命じられた大名の細川綱利は浪士たちを一目みたいと、到着を待ちわびて寝ずに待っていた。17人の到着後、すぐに綱利自らが出てきて内蔵助と対面した。

 

さらに綱利は、すぐに浪士達に二汁五菜の料理、菓子、茶などを出すように命じる。預かり人の部屋とは思えぬ庭に面した部屋を浪士達に与え、風呂は1人1人湯を入れ替え、後日には老中の許可を得て酒やたばこも振舞ったのです。

 

さらに毎日の料理もすべてが御馳走であり、大石らから贅沢すぎるので、普通の食事にしてほしいと嘆願されたほどであった。

 

年改まって元禄16年2月、赤穂浪士たちを切腹させるようにという幕府の命令書が届く。浪士達は切腹後、泉岳寺に埋葬された。細川綱利は金30両の葬儀料と金50両の布施を泉岳寺に送っている。

 

幕府より浪士達の血で染まった庭を清めるための使者が訪れた際も「彼らは細川家の守り神である」として断り、家臣達にも庭を終世そのままで残すように命じて、客人が見えた際には屋敷の名所として紹介したともいわれている。

 

このように厚遇された赤穂浪士たちをテロ行為と見るのは、史実に基づかない判断ではないでしょうか。あまりにも時代背景を無視した見解と言えないでしょうか。

 

40歳以下の若い人は、学校で日本の歴史教育をまともに教えてもらっていないので、時代の背景や歴史の真実に触れることなく育った人たちです。

 

若い人の歴史観がなっていないのは、日本の歴史教育がおかしということではないでしょうか。この教育に憤りを感じるのは私だけなのでしょうか。しっかりとした歴史教育を文科省や日教組にお願いしたいものです。

 

---owari---

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