⑤今回は「作家・津本陽さん」によるシリーズで、織田信長についてお伝えします。
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宿老筆頭の林通勝が、それまでくりかえし唱えつづけている戦法を、渋りつつ口にした。
「敵は三万、味方はわずかに三千を揃うるが精かぎりなれば、平場にてのご合戦には打つ手もござりませぬ。ただ、要害として知られしこの清洲にたてこもり、戦をひきうけ相戦うよりほかの策はなしと、存じまする」
信長は林の申し出を一蹴(いっしゅう)した。
「そのほうが戦策は、大軍勢を小勢にてひきうくるに、寵城がよしといたす、世間の者十人が十人ともに思いつくごとき、何のかわりばえもなきものだわ。さような戦をいたさば、敵は思い通りの布石をば生かしてくるだわ。いまは今川治部(今川義元)が思いのほかの手をうつときだでや」
信長は評定の場に居流れる侍大将どもを見渡した。
信長の内部で、なにかが砕け散った。
-儂(わし)は明日は死ぬ。されば思うがままに戦うてやらあず-
窮地に追いつめられた信長の脳中から忽然と恐怖が失せ、闘争本能が燃えあがった。
彼は幕下諸将を睨(にら)めまわし、いいはなった。
「いにしえより英雄といわるる者の興亡は、ただひとつ、機を得るやいなやにかかっておったのだぎゃ。城をたのんで戦機を失い、生死の関頭(かんとう:わかれめ)に及び生命を全うせんとするごとき者は、すべて自滅せぎるはなし。父上のご遺誡(いかい:いましめの言葉)には、他国より攻め来りしとき、寵城いたさば、将は心略(機転)し、卒(下級の兵士)は気変ず。ゆえにかならず国境を越え、野戦に生死を決せよと仰せられておるのだで」
信長は心中に檄(げき)するものをおさえかね、円座のうえに仁王立ちとなり、叫ぶように諸将に命じた。
「儂はのう、夜が明けりゃ城を出て今川の狢(むじな:アナグマのことを指す。時代や地方によってはタヌキやハクビシンを指す)めを退治いたすでや。儂について参る者は力を早くし大功をいたせ。われに十倍の敵と決戦いたすは、男子の本懐と申すべし。男たるもの、大敵を避け城に隠るるは、恥もきわまりしというべきでや」
林ら宿老たちは、不興げ(ふきょうげ:不機嫌なさま)に顔をそむけたが、気鋭の諸将たちは、信長の本心を聞きふるいたった。
物頭(ものがしら)のひとり岩室長門守が立ちあがり、朋輩(ほうばい:なかま)に呼びかける。
「このたびわれらが猪武者(いのしむしゃ:無鉄砲な人)殿に与して一命を棄(す)てんか。これいわゆる前世の悪因緑と申すものよ。かくなるうえは、われら輩(ともがら:仲間)いざともに打ちいでて、死に花を咲かすべし」
評定の間に、つわものどもの不敵な笑い声が湧きおこった。
彼らは笑いつつ感きわまり、節くれ立った(ごつごつしている)両の手を顔に押しあて、涙をかくした。
評定が果て、小姓、女中が酒肴(しゅこう)をはこび、出陣の宴がひらかれた。
「今生のおもいでに、わが殿の敦盛(あつもり)の舞いを拝見つかまつりとうござりまする」
声に応じ信長は扇子を手に立った。
(『下天は夢か 1~4』作家・津本陽より抜粋)
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