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直き心(前編)

2020年06月19日 | 日本
(もう少しやわらかいやり方はないか)
4月29日は「昭和の日」である。昭和時代には天皇誕生日であり、昭和天皇崩御(ほうぎょ)の後は「みどりの日」とされていたのを、2007年から「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧(かえり)み、国の将来に思いをいたす」という趣旨から「昭和の日」とされた。

確かに昭和は「激動の日々」だった。大東亜戦争という史上空前の大戦争で国内は瓦礫(がれき)の山となったが、そこから世界第2位の経済大国へと奇跡の復興を遂げた。その激動の64年間、昭和天皇は国家を支えてこられた。

この激動の中、特に戦前の御前(ごぜん)会議などで大きな決断を求められた時、昭和天皇は、しばしば「もう少しやわらかいやり方はないか」と、事前にお尋ねになられた、という。

「平らけくしろしめせ」(平安に治めなさい)というのが、皇室の先祖である天照大神が命じた所であり、歴代の天皇もそれを守って、「和(やわ)らげ調えてしろしめす」方法をとられてきた。

「知(し)ろしめす」とは「天皇が鏡のような無私の心に国民の思いを写し、その安寧(あんねい)を神に祈る」という事である。「もう少しやわらかいやり方を」と言われる昭和天皇の姿勢は、皇室の伝統そのものなのであった。

(「バブル景気」が生み出す「精神のバブル」)
しかし、時代は昭和天皇のお気持ち通りには進まなかった。大正10(1921)年、大正天皇のご病気により20歳にして摂政宮(せっしょうのみや)となられた時、すでに日本国民は「精神のバブル」期に入っていた。京都大学教授・中西輝政氏はこう述べる。

大正時代以降を振り返ってみると、日本がおかしな方向に進み出すのは「精神の膨張主義」に傾いたときであった。それは、対外政策上の膨張主義よりも深刻なものである。成功や繁栄のなかから生まれる、日本人の宿痾(しゅくあ、注:持病)としての「精神のバブル」のことである。それは必ず、過度の物質主義、性急な進歩主義、そして模倣の個人主義をもたらす。

大正時代、第一次大戦によって起こったバブル景気により、日本人は未曾有の経済的豊かさに酔う。そして政治的には、日露戦争の余韻が冷めやらぬなか、「世界の一等国」として、さらにはアメリカやイギリスと「三大大国として肩を並べた」と考えるようになった。この錯覚が、日本の進むべき道を誤らせたのである。

この様子は、1980年代後半から1990年代初頭にかけて我々の経験した「バブル景気」とそっくりである。当時、世界最強の経済大国として、日本企業はありあまるカネに物を言わせてアメリカの高層ビルや大企業を買いあさった。

そして未曾有の経済的豊かさから生まれた「カネがすべて」という「過度の物質主義」、グローバリズム・ゆとり教育・フェミニズムなど歴史伝統を無視した「性急な進歩主義」、家族や共同体を軽視し「他人に迷惑をかけなければ何をしてもいい」という「模倣の個人主義」。まさに「バブル景気」が、「精神のバブル」を生み出していた。

(よもの海みなはらからと思ふ世に)
戦前の「精神のバブル」に抗する昭和天皇のもっとも悲痛なメッセージが、対米開戦を議する御前会議において、あくまで平和交渉を優先すべきとして、次の明治天皇の御製(お歌)「四海兄弟」を読み上げられたことであろう。

よもの海 みなはらからと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ
(四方の海はみな同胞と思っているのに、どうして波風が立ち騒ぐのだろうか)

「世界の一等国」などと国際社会を対立的・競争的に捉えて、威勢を張るのではなく、他国民にも同胞意識を持って接するのが、「和らげ調えてしろしめす」道であった。

終戦の際には、内閣の意見がまとまらず、昭和天皇の御聖断を仰いだ。その時のお気持ちを次のように詠われている。

爆撃に たふれゆく民のうえをおもひ いくさとめけり 身はいかならむとも

「身はいかならむとも」国民の安寧のために尽くすのが歴代天皇の使命であった。ここにも「平らけくしろしめせ」という、天照大神の御神勅(ごしんちょく)が息づいている。

(激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代)
終戦後、昭和天皇が始められたのは、国民を見舞い、励ますための御巡幸であった。沖縄以外の全国、3万3千キロの行程を約8年半かけて回られた。立ち寄られた箇所は1411カ所に及び、奉迎者の総数は数千万人に達したと思われる。原爆の惨禍の残る広島では、こう詠まれた。

ああ広島 平和の鐘も鳴りはじめ たちなおる見えて うれしかりけり

平和の鐘が鳴り、復興に励む国民の姿に「和らげ調えてしろしめす」という道の実現を見て、喜ばれたのである。

「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代」とは、「精神のバブル」によって昭和天皇の「和らげ調えてしろしめす」志に反して大戦争に突入し、戦後はその御心に沿って世界史に残る復興を遂げた時代であった。

(直き心)
国家を「和らげ調え」るためには、国民一人ひとりが「直(なお)き心」を持たなくてはならない。他人を押しのけても自分だけ豊かになりたい、とか、競争に勝つためには手段を選ばない、というようなとげとげしい心では、社会の波風はおさまらない。

自分のことよりも周囲の人々への思いやりを大切にする、とか、多少遠回りになっても正しい道を歩んで行こう、という心持ちを多くの国民が持つときに、国は「和らげ調え」られる。

このように国内を「和らげ調えてしろしめす」ために、天皇は国民の安寧をひたすらに祈る「直き心」の体現者でなければならない、というのが、皇室の伝統であった。古来から天皇の持つ「直き心」を「大御心」と呼んだ。

昭和20年9月27日、昭和天皇は占領軍司令官ダグラス・マッカーサーと会見し、「私は、日本の戦争遂行に伴ういかなることにも、また事件にも全責任をとります」と述べた上で、こう語られた。

戦争の結果、現在国民は飢餓(きが)に瀕(ひん)している。このままでは罪のない国民に多数の餓死者が出るおそれがあるから、米国に是非食糧援助をお願いしたい。ここに皇室財産の有価証券類をまとめて持参したので、その費用の一部に充てて頂ければ仕合せである。(「奥村元外務次官談話記録」)

これを聞いたマッカーサーは、次のように反応したという。
それまで姿勢を変えなかった元帥が、やおら立上って陛下の前に進み、抱きつかんばかりにして御手を握り、「私は初めて神の如き帝王を見た」と述べて、陛下のお帰りの時は、元帥自ら出口までお見送りの礼をとったのである。

昭和天皇の「直き心」は、マッカーサーの心を揺り動かしたのである。

---owari---
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