⑦今回のシリーズは、徳川家康についてお伝えします。
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これがかれの歴史に対する、
「平和政権の長期維持」
とも絡まって、独特な「組織と人事の管理運営方法」を生む。それが「分断支配」である。あるいは「船底の論理」といってもいい。
船の底は、いくつかのパートに分かれている。いろいろな仕事があるからだ。しかし、座礁などのアクシデントが起こったときには、普段は互いに行き交いができる各パートには、突然厚い遮蔽壁が降ろされる。被害を受けた部分に浸水し、極端にいってそこに生きている人間がいても、遮蔽壁は開けられない。その場にいた人間は、溺れ死んでしまう。が、それを見捨てなければ船全体が沈んでしまう。これが「船底の論理」である。家康の組織管理法をみていると、このことを痛切に感ずる。
それがかれの独特な、
「管理職ポストの複数制」
であると、かれが今川家の人質から解放されて独立したのは、織田信長が桶狭間の合戦で義元を討ち取った直後のことだ。
しかし当時今川家に属していた家康は、義元の倅(せがれ)に、
「父の仇を討とう」
ともちかけたが、息子はウンといわなかった。
そこで家康は独立した。しかしかれは青年大名としてすでに、
「今後は民政がたいせつだ」
と思っていた。そこで岡崎奉行を任命した。が、単数ではなく三人の複数制をとった。
岡崎市民たちは選ばれた三人をみて、こうはやし立てた。
「ホトケ高力・オニ作左・どちへんなし(どっちでもない)天野康景」
というものである。高力清長はホトケのように心がやさしく温かい。本多作左衛門重次は、オニのように怖い。しかし、天野康景はそのどっちでもない公正な裁きをおこなうという意味だ。
このへんも家康の、
「各人の長所と短所をみぬいたうえでの組み合わせ」
の例がとられた。同時に、「月番」という制度をとって、一カ月交替で仕事をさせる。させられるほうにとっては、これはあきらかに、
「ドッグレース」
であり、また市民側の、
「批判にさらされる存在」
になる。
つまり市民たちは、先月の奉行のほうがよかったとか、いや、来月の奉行のほうが期待できるとか比較するからである。いきおい、奉行に選ばれた三人は競争心をもたされ、同時につねに緊張させられる結果を生む。これがのちの徳川幕府の職制に応用される。
(『歴史小説浪漫』作家・童門冬二より抜粋)
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