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大人としての「言葉の統御法」①

2019年10月30日 | 人生
「大人になるということ」には心の成長が伴(ともな)わなければいけませんが、それを測(はか)る指標の一つとして言葉の統御があると思います。自分の発した言葉が相手にどのように捉(とら)えられているのかが分からずに、「まだ大人になっていない」と判断されてしまう人も多いと思います。

心の成長という観点から、「大人としての言葉の統御の方法」を考えてみたいと思います。

(受験勉強などを一生懸命すると他人の失敗や欠点が目につくようになる)
みなさんはどうなのかは知りませんが、受験勉強などを一生懸命すると、やたらと細(こま)かいところに目が行くようになったりします。例えば、穴埋(う)めの問題や引っ掛け問題を解いたりしているうちに、「これは引っ掛けではないか」「これは罠(わな)ではないか」というように、いちいち気になってきて、頭が非常に細かくなるのです。

ただ、これは競争によって、五十万人ぐらいの人に一定の序列をつける必要があるために行っていることなので、しかたがありません。しかし、そうした引っ掛け問題ばかり解いていると、その後の仕事や人生のなかにおいても、その傾向(けいこう)が残ることはあります。

したがって、「自分は頭がいい」とか、「頭の回転が速い」とか思うような人は、高校を卒業して大学を卒業するころあたりまで、他人(ひと)の欠点がよく見えるような気がすると思うのです。そのように、この世的に見て、学業などの勉強のレベルでよくできるということは、引っ掛け問題に強かったり、普通(ふつう)はミスするところをミスせずに、きちっと乗り越(こ)えたりするようなことに長(た)けていると思います。

そのため、他人様の発言や行動などのなかからミスを見つけるのは、わりに早いだろうと思うのです。そして、そうしたミスを見つけると、やはり、若気(わかげ)の至(いた)りで、「あなたは、そこをミスしただろう」というように、どうしても言ってしまうところはあるでしょう。

もちろん、そのようなときにも、友情に免(めん)じて許される場合や、むしろ教えてあげたほうがいい場合はあります。しかし、そうではなく、単なる「人間の品性の問題」として、他人の失敗や欠点ばかりを探しているような感じが強く出てきたら、あまりほめられるものでないことは確かです。これは間違(まちが)いありません。

---owari---
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