華厳宗総本山・東大寺には世界最大の銅像がある。ご存知「奈良の大仏」です。
身の丈15メートル、総重量380トンもの偉容を誇る仏像は、これまた世界最大の木造建築(木造軸組建築として)である「大仏殿」に収まり、年間約1000万人が訪れる拝観客に対し、慈愛のこもったまなざしを投げかけている。
奈良の大仏は聖武天皇の発願によって建立された。完成したのは西暦752年、天平時代である。仏教伝来からちょうど200年目のことです。完成まで10年もの長い年月と延べ260万人の労力がかかりました。
竣工した年の4月9日、完成を祝う開眼供養が営まれた。奈良の都はこの話題で沸き返り、遠くペルシャやインドシナ、中国、朝鮮から招いた人たちも参列するほど国際色豊かな一大イベントとなったのです。
当時、発展途上にあった日本が、この大仏建立によって、海外の先進諸国に対し強烈なアピールを狙ったものと考えられています。
ところで、こんな巨大な銅像を造る技術が当時の日本にあったとは、まさに驚きです。一体、どんな方法で造り上げたのか・・・・・。その説明に入る前に断る必要があるのは、現在、われわれが見ている大仏は、江戸の元禄時代に建立されたもので、創建当時のものとは異なるという点です。
奈良の大仏は一度の地震と二度の戦火によって仏頭が落ちたり、全身が焼け落ちたリと、散々な目に遭い、そのつど新しく鋳造されてきました。創建当時のものは台座など一部に残るだけです。仏頭に至っては今日のお顔が四度目なのです。
創建当時の大仏は身の丈が今より約1メートル大きい16メートルありました。しかも、全身を金で覆い、この金を塗るだけで5年の歳月を要しました。というのも、工事の終わり頃になって大仏の体に塗る金が足りなくなったのです。ところが、749年2月、陸奥国(宮城県遠田郡)から金が出て、天皇をはじめ、みな非常に喜びました。それで、年号を天平から天平感宝と改めたのです。
昨年12月、テレビで放送されましたが、この大仏殿の隣に高さ約100メートル(推定)の七重の塔が建っていたことがわかったのです。基礎が見つかったのが東塔ですが、大仏殿の西側にも同じ規模の西塔がありました。両塔は大仏開眼供養の翌年に建立されたと記録にあります(東大寺の伽藍が完成するまでに約40年の歳月がかかっています)。また、大仏殿の大きさは建立時、現在の1.5倍あったというから、すごいスケールですね。
さて、本題の創建時の製造法ですが、奈良時代の正史『続日本紀(しょくにほんき)』などの文献に詳しく記録されている。当時の鋳造技術では一度に全身を鋳造することは不可能なため、全身を八段に分け、下から一段ずつ鋳造して重ねていくという世界初の試みが採用されました。
これは、だるま落としの人形を想像してもらえばよいのですが、実際には内部が空洞だから、ドーナツを八つ重ねたような構造を想像してもらうほうが分かり易い。
意外なのは、この八段に分けたドーナツの連結法です。つなぎ目に溶接を施す技術は当時の仏師にはまだない。そこで彼らは輪切りの上部に簡単な凸凹の差し込みを設け、全身を自重のみで安定させてしまったのです。一見、乱暴なようだが、大仏の重さを利用した理に適った連結法だったのです。
同じ東大寺には南大門の左右に、鎌倉彫刻の傑作とされる仁王像二体が並んでいる。銅と木で素材こそ異なるが、この仁王像も造立時には大仏のような連結工法が採用された。つまり、寄せ木造りです。
近年の平成大修理の際の解体修理では、頑丈な像も、たった一本のくさびを抜けば全身がバラバラになり、なんと一万点もの部品で成り立っていることが分かったのです。
日本の匠たちは、ときに神業としか思えないアイデアと技量を発揮させていたのです。
---owari---
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます