いかなる環境下にあっても、「自分としてどう生きるか。人間としてどう生きるか。その思いの力・心の力によって未来は開ける」という「個人の修行」は重要だと思います。
ただ、「個人だけでは、どうにもならないものがある」ということも事実です。それは、大勢の人間がつくる組織や社会、あるいは、国家といったものの影響です。「国家対国家」として、外交や戦争などもあるでしょう。そのように、個人個人では、どうにもならないものもあるのではないかと思うのです。
これについては、選べない時代もあれば、自分ではどうすることもできないときもありましょう。しかし、「そのなかを、どのように生きたか」ということも、また、人生のなかの「魂の刻印」として残されるものなのです。
もちろん、「人間が平等であるように、国だって平等だ」という考え方もあるだろうと思います。私は、さまざまな文明実験がある以上、いろいろな国があっていいと思いますし、宗教や言語、肌の色等の違いがあって、いろいろな国が存在する理由はあると考えています。
ただ、国に違いがあるのはよいとしても、やはり、「望ましくないかたち」の国というのは、あるのではないでしょうか。
それは、その国の構成員である国民の大多数が苦しんでいる国、不安と恐怖におののいている国、欠乏に悩んでいる国です。あるいは、「もし自由が許されるのならば、国外に脱出して、どこかほかのもっといい国に行って、その国の国民になりたい」というように、亡命したい人がたくさん出てくる国です。
客観的には、そうしたところを見れば、「その国が、今、あまり国民を幸福にする状態ではない」ということは分かると思うのです。
もちろん、いつの時代にも、そういうことはあったでしょう。特に、指導者の力がものすごく強圧的な場合、逃れることができないこともあったと思います。そういう場合には、国ごと国民が奴隷状態になることもありました。
戦争に負けた国民の場合、例えば、かつてのイスラエルの民が、四百年間、エジプトに囚われていたように、「数百年間、奴隷状態で過ごす」ということもあるだろうと思います。「戦争で負ける」というのは、そういうことでしょう。
やはり、「できれば亡命したい」「何とかして、ほかの国に逃げたい」と国民が思うような国というのは、あまりよい国ではないと考えてもよいと思うのです。
---owari---
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます