わずか16人の手勢を率い、城を乗っ取ってしまった武将がいる。この前代未聞のクーデターを成功させたのは美濃(岐阜)の竹中半兵衛、その人である。
『三国志』に登場する天才軍師・諸葛孔明にも比される軍略家であり豊臣秀吉の前半期の快進撃を支えた人物としてつとに有名だ。無欲恬淡(てんたん)としたその生き様は、欲望渦巻く戦国乱世にあって、まさに一服の清涼剤であった。
美濃斎藤家の重臣だった半兵衛が、主君・斎藤龍興(たつおき)に反旗を翻(ひるがえ)したのは、19歳の時。龍興は美濃を治める稲葉山城主で、蝮(まむし)と呼ばれた斎藤道三の孫にあたる人物だ。
事件の発端は、龍興が自分のご機嫌をとる寵臣(ちょうしん)ばかり近付け、国の政治を顧みなくなったことにある。虎の威を借る寵臣どもの横暴ぶりも日増しに目に余るようになっていた。
ある日、こんなことがあった。半兵衛が稲葉山城から帰ろうとしていると、頭上から冷たいものが落ちてきた。小便である。反射的に顔を上げると、矢倉の上で数人の若侍が、こちらを指差して笑い転げているところだった。
龍興の寵臣が、日ごろ物静かで女性のように優しい顔立ちをした半兵衛をからかったものと見える。その場は顔色ひとつ変えず、立ち去った半兵衛であったが、心中では「堪忍もこれまで」と、ある決意を固めていた。
半兵衛は龍興とその寵臣どもにひと泡吹かせるべく、策を練った。まず、小姓として龍興の側近くに仕える弟に重病を装わせ、その見舞いと称して郎党16人と共に城中に入った。郎党に持たせて運び込んだ長持ちの中には刀や槍などの武器が詰め込まれていた。
夜を待って行動に移る半兵衛主従。宿直の武士を討つなど短い戦闘の後、城を占拠し、主君を城から追い出してしまう。まことに、あっけない乗っ取り劇だった。
ここで半兵衛の面白いところは、そのまま城に居座るようなことはせず、再び龍興にさっさと城を明け渡してしまうのである。そして、自らは引退して浪人となった。下剋上を成功させることは可能だったはずだが、半兵衛にすれば龍興に反省を促すだけでよかったのだ。
この鮮やかな智略と、潔いまでの無欲さにほれ込んだのが、秀吉だ。「お手前の才能をこのまま朽ち果てさせるのは惜しい」と、半兵衛の浪宅を訪ねて口説き落とし、自らの帷幕(いばく:本陣で作戦を図る所)に加わることを承知させたのである。
秀吉の片腕となってからの半兵衛は、「姉川の合戦」や「中国攻め」などにおいて数々の功をあげている。その半兵衛も1579年6月、三木城(兵庫県三木市)攻略の陣中において病没する。36歳だった。臨終に際して秀吉は、7歳下の半兵衛の手を握りながら泣き続けたという。
華やかな表舞台に立つことは決してなかったが、名参謀として歴史を動かした後半生だった。
---owari---
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