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元寇を退けた!玄界灘に吹き荒れる勝利の“神風”(前編)

2018年08月02日 | 歴史

「いまにカミカゼが吹いて鬼畜米英を蹴散らしてくれる」

太平洋戦争で敗色濃厚となった日本側の最期の望みの綱が、一発逆転神風の到来であった。こうした神頼みの風潮が降伏のタイミングを遅らせ、ひいては原爆の被害を招いたと指摘する歴史学者もいるほどだ。

 

この“神風信仰”のもとになった事件こそ、鎌倉時代後期の「元寇」である。元寇は1274年(文永の役)と1281年(弘安の役)の二度にわたって起こった。元の蒙古軍が日本に来襲し、二度とも神風と言われる暴風雨によって壊滅させられた事件である。

 

13世紀、チンギス・ハンに始まるモンゴル帝国は孫のフビライの代に至り、アジアからヨーロッパにまたがる大帝国を築き上げていた。その雲霞(うんか)のごとく押し寄せてくる蒙古軍の侵攻に敢然と立ち向かい、これを駆逐した例は南のベトナムと東の日本だけと言われている。ベトナムの場合はジャングルが、日本の場合は海が蒙古軍を阻んだのである(実はこのベトナム軍を教育したのは日本兵であった)。

 

フビライが日本侵攻をもくろんだ真相は今もって分かっていない。一説にはマルコ・ポーロが著した「東方見聞録」に「黄金と真珠を豊富に産する島国」と紹介されているのを知り、これに食指を動かしたものという。

 

さて、一回目の元寇だが、3万を超える蒙古・高麗連合軍が高麗の合浦から日本に向け船出したのが、127410月。使者を遣わせての度重なる国交要求も時の鎌倉幕府に無視され、業を煮やしたフビライが武力制圧に乗り出したのである。

 

まず、対馬に上陸した元軍は幕府から派遣されている守護代とその部下80人、さらに島の男たちのすべてを虐殺。女たちは掌に穴をあけられ、船べりに縄で吊るされたという。

 

勢いづく元軍は続いて壱岐を占領し、20日にはとうとう博多湾に上陸した。これを迎え撃ったのが九州の武士軍団。ところが、日本側の当時の戦闘スタイルと言えば一騎打ちが基本。片や、主力の蒙古軍は集団戦が得意だ。

 

「ヤーヤー、われこそは・・・・・」と名乗りを上げている間に蒙古軍兵士に寄ってたかって血祭りにあげられるという、一種滑稽とも言える光景があちこちで展開した。

 

武器においても、蒙古軍は石火矢(一種の鉄砲)などの新兵器や毒矢を駆使。さらに、集団で太鼓をたたき、ドラを鳴らして攻め込んでくるため、何よりも馬が驚いて飛び跳ね、落馬する武士が相次いだという。

 

こうして初日は日本軍の完敗のうちに終わった。元軍は夜襲を恐れてか、軍勢を船に引き上げさせた。結果的にこれが敗因となった。その夜、日本側にとっての神風が玄界灘に吹き荒れたのである。

 

---owari---

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