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長い歴史の中で培った慣習や常識に照らせばよい

2018年10月16日 | 政治・経済

「新しい日本人」にとっての憲法観はどうあったらよいか。歴史的に見れば日本という国は、そのときの日本人の意志でいかようにも憲法以下の法体系を運用し、純粋に法的な手続きよりも上位の概念で事を決めてきた。

 

それで何か不都合があったか。

厳格な憲法学者やスローガンの心酔者には許しがたいことだろうし、日本の国柄をきちんと反映した憲法をつくりたいと考えている人たちにとっても、こうした意見は乱暴に映るだろう。しかし、私は日本という国の本質について述べている。

 

日本人が長い歴史の中で培った慣習や常識に照らせばよい。日本はこれまでも「超法規的措置」を行ったことがある。

 

超法規的措置とは、国家が規定した法の範囲を国家それ自体が超えて行う特別な行為のことだが、憲法にもどこにも、その行為の法的根拠はない。それを行う主体は行政だが、国会による事後承認や裁判所による判断の手続きも規定されていない。概念だけで運用されてきた。

 

昭和52年(1977年)のダッカ日航機ハイジャック事件で、福田赳夫首相(当時)が犯人グループの要求に応じ、「人命は地球よりも重い」と述べ、身代金の支払いと服役中の犯人グループの仲間を引き渡した事例は、超法規的措置である。

 

あるいは、こういう事例はどう考えるか。日本国憲法は国民に等しくその生命と財産を守ることを謳(うた)っているが、たとえば自衛官は入隊時にこう宣誓(せんせい)する。

 

<事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、もつて国民の負託にこたえることを誓います>

 

つまり自衛官は、事と次第によっては自己の生命財産を投げ出して国民に尽くすことを求められる。

 

先にペルシャ湾に派遣された海上自衛官の奮闘について述べたが、東日本大震災で示されたように、警察官や消防士も同様である。憲法に認められた個人の権利を放棄して同胞に尽くすことを求められ、それに応じる人々が存在することは憲法の矛盾ではないのか。

 

昭和61年(1986年)に起きた伊豆大島・三原山の噴火で、当時の中曽根康弘首相は全島民に避難命令を出した。中曽根氏は、避難が間に合わないことがあってはならないと、いっときの内閣法違反、憲法違反を承知で、全島民避難のための艦船派遣決断し、実施させた。しかも、中曽根首相は島民の避難が完了するまで残れと言って、町長や警察署長ら数人を島に残した。いずれも超法規的措置といってよい。

 

国会決議を経た「非核三原則」を“国是”という政治家やメディアは多いが、それならば横須賀に入港している米海軍の艦船の装備を見てみたらどうか。

 

実態として、米軍によって日本に持ち込まれている核によって、日本は不十分ながら核抑止力を持ち得ていることは、国民のほうが知っている。自衛のための核保有は憲法上禁止されていないと従来から政府答弁にもあるが、国是であるはずの「非核三原則」が守られていないことを非難する国民は少ない。

 

運動家はいざ知らず、ここでも庶民は融通無碍(ゆうずうむげ)である。

 

---owari---

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