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花のお江戸はボランティアで持つ

2020年09月10日 | 日本
(戦う西洋、平和の日本)
戦国時代には世界一の銃砲生産大国だった日本が、江戸時代に入ると、銃を捨て、平和な国造りに向かった。その後に建設された社会がどのようなものだったのかを見てみよう。

同時代のヨーロッパでは、内では30年戦争を行い、ドイツでは人口が1/2とか、1/3になるような悲惨な状態であった。また外に対しては、植民地収奪に明け暮れていた。

スペイン人が現れる前には、中央アメリカの推定人口は7千万人から9千万人はいたとされているが、スペイン人の侵入のわずか一世紀後には、350万人に激減している。またこれも推定であるが、3千万人から6千万人に及ぶ黒人奴隷がアフリカからアメリカ大陸に連れ去られ、その2/3が航海途上で死亡して、大西洋に捨てられたといわれている。

西洋が内なる戦争と外への植民地化に血道をあげていた頃、江戸日本は260年余の長い平和と繁栄の時代にあった。その差は教育水準に歴然とあらわれる。

(群を抜く教育水準)
専門家の推定では、幕末の嘉永年間(1850年頃)での江戸での就学率は、70~86%。これを以下のデータと比較してみよう。

・イギリス(1837年での大工業都市) 20~25%
・フランス(1793年、フランス革命で初等教育を義務化・無料化したが) 1.4%
・ソ連(1920年、モスクワ)20%

江戸日本の教育水準がいかに群を抜いていたかが分かる。なぜこれだけの差がついたのか、単に物質的豊かさだけなら、産業革命に成功し、7つの海にまたがる広大な植民地を収奪したイギリスの方が、はるかに有利だったはずである。その秘密を探ってみよう。

(お師匠様はボランティア)
当時の江戸には、1500余りの寺子屋や塾があった。幕末の全国では、1万5千にものぼる。僧侶や神官、武家、農民などが運営していたもので、幕府は直接的には一切、関与していなかった。これらの人々が自宅などに、10人から、大きいところでは100人程度の生徒を集め、読み書き、算術、地理、さらには、農業用語や漢文まで教えていたという。現在で言えば、正規の小中学校がなく、すべて町中の書道教室や学習塾のようなものだけだったと想像すれば良い。

面白いのは、たいていの塾は、武家や僧侶、農民など、他に収入のある人達がやっているので、授業料などは生活の足し程度でしかなかったという点だ。生徒は「お志」として、都市部では多少の金品や菓子折り、農村部ではとれた野菜などを届ける程度であったという。現在なら、年金だけで食べていける定年後のお年寄りが、地域への奉仕として、子供達を教える、というような形である。今流に言えば、ボランティア活動であった。

それでは、なぜ全国で1万5千もの塾ができる程、大勢のボランティアの先生がいたのだろうか。それは、先生になると、たとえ身分は町人でも、人別帳(戸籍)には、「手跡(しゅせき)指南」など、知的職業人として登録され、生徒には「お師匠様」と尊称で呼ばれ、地域でも知識人、有徳者として尊敬された。優秀なお師匠様は将軍に直接拝謁(はいえつ)して、お褒(ほ)めの言葉をもらうこともあったという。

お師匠様たちは物質的には豊かでなくとも、近隣の人々に感謝され、尊敬されるという精神的な価値で十分満足できたのである。

(理想のマン・ツー・マン教育)
もちろん、実力や人格に問題のある先生もいたであろう。しかし、狭い地域内に、幾人かのお師匠様がおり、生徒は自由に選べるのである。現在でも、町内でどこの塾が良いというようなことは、評判ですぐ分かる。つまらない人間が金目当てに塾を開業しても、生徒は集まらない。生徒とその親から見れば選択の自由、そして塾どうしで見れば、競争があったのである。

子供達は、親が見込んだ先生、それも地域で尊敬される師匠について、何年にもわたって読み書きから、専門知識まで学んでいく。いろいろな年齢の子供達が一つの部屋で机を並べ、それぞれの進度で、師匠の指導を受けながら学んでいく。師匠には、一人一人の子供の個性や能力がよく見えたであろう。それぞれの生徒に応じた指導ができたはずである。

(7千種もの教科書)
お師匠様たちの教育にかける熱意は、当時の教科書に窺(うかが)う事ができる。江戸時代に作られた教科書は、実物が残っているものだけで、7千種類以上もある。大まかに250年で平均してみれば、年間30種類も出ていたことになる。

内容も、商売人、大工、農民の専門用語を教える教科書だとか、地方独自の地理や物産、生活習慣を教える教科書だとか、いろいろ工夫をこらした独創的なものが作られた。

和紙は信じられないほど丈夫で、丁寧に使えば、100年は持つという。それで教科書を作り、師匠が生徒に貸し与えていた。習字の紙なども、真っ黒になっても、その上から書く。新しく書いた所は、光ってそれと分かるので、支障はなかった。

教科書にしろ、半紙にしろ、限られた資源を最大限に活用して、その中で、十二分に知恵と情熱を盛り込んで、教育に向かっていた様子が窺われる。

(お師匠様が現代の学校を訪問したら)
さて、江戸時代のお師匠様たちが、タイムマシンで現代の学校を訪問したとしたら、どんな事を思うだろうか。

まずクラス全員に一律の内容を、一律のスピードで教えていく、というのに驚かされるだろう。一人の師匠が生徒一人一人を何年もかけて育てていく手作り教育に比べれば、今の学校は、まさに現代特有の大量生産工場とそっくりだと言うのではないか。ついでに、日教組では、教師を「労働者」だと考えていることを説明すれば、さもありなんと思うに違いない。生徒は労働者によって、規格大量生産される製品に過ぎないのだ。

次に、公立校の教師が皆、公務員である事も信じられないであろう。人口120万人の江戸の町奉行はわずか290名で、行政、警察、裁判、消防をこなしていた。現代では何十万人という教師が皆「お上」にぶる下がり、民から税金を巻き上げて、教育をしているのである。民間だけでできることに、なぜ、そこまで「お上」が出しゃばるのか、理解できないであろう。

第三に、公立校では、生徒が学校も先生も選ぶ自由がない、というのには絶句してしまうかもしれない。江戸時代では、親がこれはと思ったお師匠様を選んで、自分の子供をつけた。それに対して、現代の子供達は、一定の年齢になったら「お上」の決めた学校に召集され、決められた先生に割り当てられる。どんなひどい教師でも、文句一つ言えない。

「現代の学校とは、知識を無理矢理詰め込むだけの養鶏所ではないか」お師匠様たちは、自分たちの志とはあまりにかけ離れた未来の学校と教師の有様に、愕然(がくぜん)とするだろう。

(自由と競争の中での理想追求)
中学生が担任をナイフで刺し殺す、などという事件が起こって、生徒の持ち物検査をしようとすると、すぐに生徒の人権問題だなどと騒ぎ立てる向きがあるが、お師匠様たちから見れば、こんな非人間的な教育環境に生徒を放置しておいて、何が人権か、とあきれかえるであろう。

教育の本質は、生徒が尊敬する先生に師事して、知識だけでなく、人間としての生き方を学ぶことだ。そのお手本となるのが、「お上」に頼らずに自らの志に従って、教育に私財を投ずるお師匠様たちのボランティア精神そのものだった。

江戸日本の教育の地球史上でも群を抜く成功をもたらしたお師匠様達の生き方は、これからの国際派日本人にも、重要な示唆(しさ)を投げかけている。それは「自由」、「競争」、「選択」の中で、自らの信ずる価値の実現に志していくという生き方なのである。
(文責:「国際派日本人養成講座」編集長・伊勢雅臣)

---owari---
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