このゆびと~まれ!

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平和の海の江戸システム(前編)

2020年09月11日 | 日本
今日も「国際派日本人養成講座」(編集長・伊勢雅臣さん)からお伝えします。

(自力で栄えるこの豊沃な大地)
「1850年の時点で住む場所を選ばなくてはならないなら、私が裕福であるならばイギリスに、労働者階級であれば日本に住みたいと思う」
アメリカの歴史家スーザン・B・ハンレーの言葉である。

海洋アジアの物産に対抗して、ヨーロッパが暴力的収奪によって近代世界システムを作りあげていた時に、日本はまったく別のアプローチによって、もう一つの近代文明を育てていた。これを江戸システムと呼ぶ事がある。それは庶民にとってみれば、近代世界システムの最先端、大英帝国よりも幸福な社会であった。

その実態はどうだったのだろう? 
19世紀後半に世界各地を旅したイギリスの女流探検家イザベラ・バードは、明治初年に日本を訪れ、いまだ江戸時代の余韻を残す米沢について、次のような印象記を残している。

南に繁栄する米沢の町があり、北には湯治客の多い温泉場の赤湯があり、まったくエデンの園である。「鋤(すき)で耕(たがや)したというより、鉛筆で描いたように」美しい。米、綿、とうもろこし、煙草、麻、藍、大豆、茄子、くるみ、水瓜、きゅうり、柿、杏、ざくろを豊富に栽培している。実り豊かに微笑する大地であり、アジアのアルカデヤ(桃源郷)である。

自力で栄えるこの豊沃(ほうよく)な大地は、すべて、それを耕作している人びとの所有するところのものである。美しさ、勤勉、安楽さに満ちた魅惑的な地域である。山に囲まれ、明るく輝く松川に灌漑(かんがい)されている。どこを見渡しても豊かで美しい農村である。

ヨーロッパ人が、他の大陸の土地と人間を暴力的に収奪して、豊かさを手に入れたのに対し、日本人は「自力で栄えるこの肥沃な大地」を築き上げた。それはどのようなアプローチで可能だったのだろうか。

(木綿後進国だったヨーロッパと日本)
17世紀末にインド木綿がヨーロッパで衣料革命を起こしたのだが、東アジアにおいても、それよりやや早く、同様な現象が起こっていた。そこでの木綿生産は、13世紀末の中国に始まり、14世紀末に朝鮮、15世紀末には戦国時代の日本へと、ほぼ一世紀ずつ遅れて普及した。

室町時代以前の日本人の衣料は、麻であった。綿布は麻にくらべてやわらかく、保温性も良いので、特に冬季の衣料として、一般民衆に普及した。そのため15世紀前半からの約1世紀間、日本は大量の綿布を朝鮮から輸入した。朝鮮だけではその需要に応じきれず、16世紀半ば以降からは、中国から輸入するようになった。ヨーロッパと同様、日本も木綿生産の後進国として、輸入に頼っていたのである。

(黄金の国ジパング)
何も売るもののないヨーロッパは新大陸から収奪した貴金属を支払いにあてたが、日本はどうしたのだろうか。幸いな事に、戦国時代に鉱山開発が進んだ結果、日本は当時、世界有数の貴金属産出国になっていた。

たとえば銀については、17世紀初頭において、日本を除く世界の年間銀産出高が39~49万kgだったのに対し、日本の輸出高だけでも16~20万kgに達していた。

銅についても、シナでは明の時代に貨幣原料の不足を来たし、清代には日本への輸入依存を徐々に高め、18世紀初めには、ほとんど全量を日本銅に依存する状態になった。

地大物博(ちだいぶつはく:土地が広くて物産が豊富である)の国と呼ばれたシナも、実は貨幣経済の首根っこは日本に押さえられていた。そして日本の銅銭は、シナのみならず、アジア域内交易に広く用いられた。マルコポーロの「黄金の国ジパング」とは、あながち荒唐無稽な形容ではなかったのである。

(四大国際商品の国産化に成功)
高価な輸入品を安く自給して、生活水準を高めたいと思うのは、当然の志向である。ヨーロッパは、アフリカから移送した黒人をアメリカ大陸のプランテーションで働かせて綿花を栽培し、それをイギリスの紡績機で綿布に仕上げるという三角貿易で、綿布の自給体制を作り上げた。これが産業革命の契機となった。

日本も綿布の自給を図ったが、肥沃な土地と温暖な気候に恵まれ、国内栽培が可能であった。15世紀末の戦国時代から広がった綿花栽培は、17世紀末から18世紀初頭にかけて、多肥・労働集約的な農法の開発などで発展を続け、停滞するシナ、朝鮮を凌駕(りょうが)するに至った。

こうして、ユーラシア大陸の両端、木綿生産の最後進国であったイギリスと日本は、19世紀を迎える頃には、綿業の最先進国になっていた。

海洋アジアのその他の物産についても、我が国は次々と国産化に成功した。ペリーが日本に通商を迫ったときには、近代世界システムにおける4大国際商品、すなわち木綿、砂糖、生糸、茶は、すべて自給していたのである。単なる偶然ではなく、これらの商品を自給しようという所から、近代世界システムも江戸システムも発展してきたからである。ただそのアプローチは、あまりにも対照的であった。

---owari---
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