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ほしかった国際性 ⑨

2022年07月01日 | 歴史
今回のシリーズは、上杉謙信についてお伝えします。このシリーズは今日で終わりです。
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もう一つある。それは、大内氏を滅ぼした後、毛利元就は下関港を掌握した。彼は大内氏や尼子氏がねらいつづけた「銀山」を手にしたが、
「港湾の活用」
に対して思いをいたさなかった。もっと言えば、下関港の向かいには門司港がある。そして、その脇には博多港もある。

私は、
「なぜ、毛利元就はこれらの三つの港を活用し、国際社会に乗り出さなかったのだろうか」
と考える。それは大内氏がすでに、
「東南アジアとの貿易によって富を蓄えていた」
という事実があるからである。

幕末に、開明的な大名といわれた薩摩藩主・島津斉彬(なりあきら)が、徳川幕府の首脳部にこんなことを言っている。
「なぜ、幕府は下関港を直轄地としないのですか?長州藩にゆだねておくと、あとでロクなことは起こりませんぞ」
そのとおりになった。明治維新の火は下関港から燃え上がった。多くの志士たちはほとんどこの港から立ち上がった。

関ケ原の合戦で、毛利家は徳川家康にひどい目にあわされたから、
「その復讐の火を、下関から燃え上がらせたのだ」
と言えないこともないが、しかし、もしも毛利元就が、下関・門司・博多の三港を活用して、大内氏と同じように東南アジアに進出していれは、日本の歴史も大きく変わっていただろう。

「歴史に"もし"はない」
ということを十分承知しつつも、
「もし、元就がそこまで踏み込んでいたら」
という思いは、私の胸の中で燃えさかっている。

(『歴史小説浪漫』作家・童門冬二より抜粋)

---owari---
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